かったかくんのホームページ

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天へと・・・澄んだ秋空へ

2015年10月09日 | Weblog
昨日はおばの葬儀が行われました。前日の夜からおばのところに行かせてもらいました。いろんな思いが浮かぶ中での2日間でした。
 

葬儀が終わってから、自宅の方にお骨などを持って行きました。部屋の中に入ると、壁に貼られていた一枚の少し古くなった色紙を目にしました。

最後退職をするときの職場の先生たちとの写真が貼られ、その周りには、一人ひとりからの言葉が書かれていました。

大切に飾っています。


おばは37年間小学校の先生をしていました。最後は、島の学校でした。

今は、過疎化の中で児童数も激減しているのでしょうが、当時の写真を見ると、先生の数もたくさんいます。

たくさんの子どもたちとこの学校で関わりを深めていったのでしょう。
音楽が専門で、子どもたちと校舎に歌声を響かせていたことだと思います。
 

37年間の教員生活。そして時が経ち、退職されてから小さな時計店を営むご主人と同じくらいの年数を地区の中で生きてきました。
 

おばのおかげで、家に埃をかぶっていたゼンマイで動くふりこの時計を動かすようにしていただきました。


明治から大正にかけて時を刻み、歴史を見てきた時計が復活してきました。

おじは、
「ぜんまいの時計で動かせない物はないですよ。」
という職人気質の時計屋さんです。
 


女性として激動の大正、昭和と生きてきたおばが逝ってしまいました。最後の勤務校を一緒に過ごした先生の弔辞がおばの人柄を感じました。

下の写真は、火葬場から見た八面山です。
 


一昨日は、中学校のときの先生。その後、教育長さんとしても関わりをもっていただきました。またお孫さんのMさんをこちらが教える縁がありました。

そのお孫さんが、わが子と同じ勤務場所になったりしました。何かにつけて、つながりがありました。



前任校の時、学校だよりは、できるだけ先生のところにもって行っていました。

「おっ、よおきたのう。どげしよるか。」

と奥様と笑顔で迎えてくれました。足がおぼつかないところがあったので、

「せんせい、こけんようにせんとつまらんよ。」
「そうじゃのう。」
 

豪快だけど、私たちが中学生のときもそうでしたが、人への心配りができる優しい先生でした。だから、葬儀場もあふれるほど弔問の人が訪れていました。


前任校で最後の学校便りをもって行ったのが、先生との最後に交わした言葉だったのかも知れません。この2日間は、大切な人を見送りました。


秋の空や海がせつなく寂しく感じました。
写真は、帰りに見た海の夕陽です。