8月6日は広島原爆投下の日です。
私の母(故人)は広島原爆投下の翌日に広島へ行ったと言っていました。陸軍の召集兵として広島のどこかに居た夫が無事かどうか、確かめに広島へ行きました。当時、母は満21歳。大阪から広島に入ったのは1945年8月7日か8日ではないかと思いますが、ここでは8月7日とします。
広島駅では列車が横倒しになっていて、中には真っ黒焦げの遺体が重なっていたそうです。それらの遺体は、吊革にぶらさがった姿のままで横倒しになっていました。真っ黒でのっぺらぼうの人形を横に置いたような姿形であったそうです。
母は市内の中心部をあてもなく歩いたようです。「みんななぁ、水、水と言って死んでいくんや。水を飲んだら死ぬんや」。母はそう言っておりました。水をくれという人に何人も出会ったそうです。
それらの人たちはこんな姿をしていたと言っていました。
被爆の火傷のために、腕の皮膚が肩からずり落ちていました。火傷で痛いのでしょう。両脇から腕を少し浮かせるようにしてあるいていました。ずり落ちた腕の皮膚は手・腕のそのままの形を残した姿で手首までずり落ちて、手首で止まっていました。だから両腕ともに、手首の先にもう一つ腕を引きずっているような形で歩いています。
市内の川には死んだ人がいっぱいいたと言っていました。水際に頭をつけた死体がいっぱい並んでいたそうです。水を飲んで死ぬんです。
ある所では、路傍の人から裾をつかまれました。「その子は」と母は言いました。「お姉さん水をください、と言うて裾をつかむんや。そんなん言われても何もでけへん。それを振り放して行ったんや……」。
母はそのとき7か月の身重でした。身重でなくても、そこここに負傷者がいて死体もあっただろう原爆明けの焼野原にあって、遠くから人を探してやってきた、暑い夏の日の若い女性一人にできることはなかったでしょう。
母はそのあと、今の北広島町にある夫の実家に滞在しました。
そこには同じように若い従妹がいて、広島の電話局の交換手をしていて、電話局の建物内で原爆に遭遇したそうです。幸いに無傷で帰郷していました。しかしながら、その従妹は髪を梳くとごっそり抜けるようになり、まもなく死んだということでした。
さきほどNHK・Eテレの深夜番組で、広島原爆で被爆した女優・園井恵子のことを放送していました。この女優は爆心地から700mにある旅館の中で被爆し、外傷はなかったそうです。
放送内容からすれば、8月16日にはまだ元気な普通の体でありました。しかしその後に急に体調が悪くなり、髪が抜け、両腕が内出血でぱんぱんに腫れ、40度の高熱を出して、1945年8月21日に亡くなりました。
母の従妹の状況は、女優・園田恵子さんとそっくり同じものでした。
後年に至って、私の母は「原爆の図」で名高い日本画家・丸木位里さんに出会うことがあり、色紙に母の似顔絵を即興で描いていただきました。その即興画は黒マジックの線画で、母の頭の上に鳩が留まっている似顔絵でした。その鳩は小さな野の花を一輪くわえています。私はこれを母の思い出とともに大切に持っています。
母は趣味で油絵を描いていた晩年、一人で原爆ドームを描きに行きました。私は子どものころから、くりかえしくりかえし原爆の話を聞いていて、母の原爆へのこだわりをよく理解しておりました。しかし、母が死んでから、その一泊旅行に同行しなかったことを後悔しました。
母はどんな想いでたった一人で原爆ドームを描きに行ったのか‥‥。この原爆ドーム画も、丸木位里の即興画と同様に大切に持っています。