川本ちょっとメモ

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岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記 その8 人肉を食べる飢餓兵

2013-08-20 08:03:46 | Weblog

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    ※久田氏、水島氏の経歴は、8月14日『その1』をご覧ください


<人肉を食べる飢餓兵>
 ――岩波現代文庫『戦争と戦う』p258――

水島 極限状態にあった南方各地の戦場では、人肉事件がかなりあったようですね。この種の文献を読むと、鳥肌がたつ思いがします。特に海上挺進基地第七大隊所属の軍医守屋正氏のものが注目されます(守屋『比島捕虜病院の記録』p27~31、同『フィリピン戦線の人間群像』p62~86)

守屋氏は、自分の部隊に「人間の料理人」がいたことを知ってやりきれなくなる。銃弾で即死した死体は、病死した死体よりも彼らにとっては上等で、そのために味方の日本兵を殺して食べている。「ジャパンゲリラ」はジャングル内を徘徊し、日本兵を襲う。彼らは特に脳と肝臓が好物だった。守屋氏は、猿の肉を食べてうまいと思ったので、人肉もうまいというのは科学的根拠があるといいます。「食物はその動物の肉体の消耗を防ぐためのもので、その動物に似た構造の食物ほど有効であり、美味と感じるわけである」と。

クラーク西方ピナツボ山(建武集団地区)海軍第16戦区では、司令以下本部員が味方の兵隊に寝込みを襲われ、きれいに解体されています。一六、七個の飯盒にぎっしりと塩漬けされた人肉が詰まっていたといいます(赤松光夫『太平洋戦争・兄達の戦訓』p173)

人肉を食べている者は血色がよく、ギラギラした限をしていたのですぐわかったそうですね。飢餓状態の中で良質の蛋白質を急にとったからでしょうか。

久田 私はボントックの山岳地帯にいた時に、人肉を食っている連中の話を聞いたことがあります。捕虜収容所でも聞きました。でも私は、フィリピン人やゲリラの死体を食っているとばかり思っていたので、あなたから守屋氏の『比島捕虜病院の記録』を見せてもらって、大変びっくりしたのです。まさか、日本兵が味方の日本兵を殺して食っていたとはね。

実は私も何の肉はわからないものを食べさせられたことがあります。1945年6月下旬頃、大隊本部に追いついて、その夜、副官の和田中尉の当番兵が作ってくれた汁の中に、肉が一、二片入っていたのです。長い間、動物性蛋白質を口にしていなかったのでうれしかった。

灰色がかった肉で、変に柔らかい。それにあまり味もしない。塩がないからだろうくらいに思って、あまり気にしませんでした。当番兵は、「主計殿、今食べた肉は何の肉だと思いますか。それは、さっきそこにいた猫です。そこにもう一匹猫がいますから、取ってこられたら、私が料理して差し上げましょう」という。

それで猫さがしをやった。猫は殺気を感じたのか、一度発見したのですが、さっさと逃げてしまいました。それよりネズミを焼いて食べると美味しいというので、見にいった。ちょうど酒井主計軍曹が捕まえてきて、「主計殿、ネズミをとってきたので食べませんか」と、手につまんでいるネズミをひょいと私に見せた。軍靴で踏み潰されて、目玉が飛び出してぶら下がっている。さすがにこれだけは食う気になりませんでしたね。


<猿は人間の赤ちゃんに見えて食えず>
 ――岩波現代文庫『戦争と戦う』p260――

久田 師団経理部に転属になってから、ある日近くの木の枝に一匹の猿が飛びまわっているのを見つけた。一人の兵隊が小銃を持ってきて発砲すると、一発で命中。猿は木の下に落ちてきた。兵隊たちは「当たった、当たった」と歓声をあげています。しとめた兵隊が猿を引きずってきたので見ると、どこかの動物園で見た猿と同じ顔をしていて、掌は人間の赤ん坊のそれのように可愛らしかったです。食えといわれても、とても食べられませんね、あれは。

水島 守屋氏の当番兵は四国の山猟師で、鉄砲打ちの名人。それで10匹ほどの猿を食べ、おかげで医務室は生存率が高かったそうです。猿の肉の横にカニが添えてあるものを食べ、これを「合戦どんぶり」(猿カニ合戦のこと)と命名したそうです(守屋「ある飢えの体験」『終末から』創刊号p44)

また、捜索16連隊所属の石田徳見習士官は、一緒にいる兵隊を見ているうちに、「彼がうまそうで、しきりに涎が出た。あの頭をたたき割ると、中の脳味噌がうまいだろうなあ……」と、思わず刀の柄に手をかけるところまでいったことを告白しています(石田『ルソンの霧』p161)。私などの想像を絶する世界です。

久田 栄養失調と赤痢でカリガリに痩せ、食べられるものは何でも食べたのに、私は猿だけは食べられなかった。だから、餓死するギリギリの状況の中でも、人肉を食うかどうかは、人によってかなり違うですね。

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