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岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記から18完 人間が人間として生きられぬ社会をつくってはならない
※久田氏、水島氏の経歴は、8月14日『その1』をご覧ください。
<人間として生きるために戦争とたたかった>
――岩波現代文庫『戦争と戦う』p383――
私は1985年に古稀を迎えた。私の70年の人生は戦争を抜きにしては考えられない。同年代の人は皆同じといえば、その通りである。しかし私の戦争との関わり方はやや違っていた。私は、戦争の中で、戦争を戦うのではなく、人間として生きるために戦争とたたかったのである。私は生まれた時から体があまり丈夫ではなく、心臓神経症という持病もあった。
また私は人一倍臆病で、意気地のない人間だった。私は軍隊とか軍人とかいうものを、人一倍嫌った。だから軍隊にとられても、上官から殴られ、蹴られても、軍隊に同化し、天皇の狂信的信者になることを拒否した。私は、「軍人とは天皇の狂信的信者で、命知らずの殺人者だ」と思っていたから、私のそれまでに得た知識からしても、到底そのような軍人にはなれなかったのである。
<中国民衆に対して殺害、破壊、略奪>
ところが戦場というところは、いやがおうにもそれを要求する所である。中国大陸では、日本軍という「殺人・破壊集団」が中国民衆に対して、殺害、破壊、略奪をほしいままにした。
そしてそれを、「大東亜新秩序建設」だとか「八紘一宇(はっこういちう)」など、中国民衆からすれば誠に勝手な理屈をつけて正当化していたのである。中国民衆は「皇軍」と称する日本軍を、「東洋鬼」「鬼(怪物)の化身」といって嫌悪した。
<ルソン戦場は日本兵の場>
しかし、圧倒的な物量で押してくる米軍相手では、日本軍の戦法はまったく通用しなかった。私の体験したルソン戦場は、まさに厚い「死の壁」(そこから逃げ出せば敵前逃亡罪、抗命罪で、日本軍の手によって殺される)によって囲われた「場」だった。
の順番は、上官の命令によって決まった。前線で戦っている将兵の生死の決定権は米軍ではなくて、日本作戦指導部、作戦指揮官が握っていた。
<幾十万の将兵の生命よりも天皇の命令を重んじて>
「上官の命は朕(ちん)が命と心得よ」をたぐっていくと、結局天皇に行き着く。戦争を始めたのも天皇。そして、一声天皇が戦争をやめるといっていれば、それで戦争は終わり。犠牲をそれ以上に出すことはなかったのである。
しかし天皇も大本営も、早々にルソンの日本軍を見捨てていた。現地の作戦指導部(山下奉文大将および参謀たち)は、天皇に忠実なこと下士官の如く、幾十万の将兵の生命よりも天皇の命令を重んじて、下級将兵の餓死と病死に目をつぶっていたのである。
<いったい誰がここまで追い込んだのか、その責任は?>
<人間が人間として生きられぬ社会をつくってはならない>
戦争の馬鹿らしさ、軍隊の馬鹿らしさ、軍隊的階級秩序の馬鹿らしさを目のあたりにして、兵たちは、「こんな馬鹿な戦争で死ねるか」、「こんな奴(上官)の下で死ねるか」、「何としても生きて故郷に帰りたい」と、生への執着(人間の原点)をはっきりと言葉にしていうのだった。そして戦わずに戦線離脱していった。
だが、戦線離脱しても戦場では生きていく条件はない。生きる条件のないところで、生きる戦いをせねばならなかった。生きるためにエゴイズムに走り、現地人の物を略奪し、日本兵同士が盗み合う。「皇軍」はまさに獣化していった。
この修羅場をいかに切り抜けてきたか。その中で何を学んだか。いったい誰がここまで追い込んだのか。その責任は。
人間が人間として生きられぬ社会をつくってはならない。人間が、人間として生きることの大切さを知る。戦場で見たポツダム宣言の意義。これらは私においては、すべて日本国憲法につながっていった。
1986年8月15日 久田栄正
※岩波現代文庫『戦争と戦う』の戦争体験抜き書きは今回で完了します。次回は引き続き本書から、久田氏の憲法観を抜き書きします。