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※久田氏、水島氏の経歴は、8月14日『その1』をご覧ください。
<1945(昭和20)年フィリピン戦当時のルソン島日本軍>
――岩波現代文庫『戦争と戦う』p133――
陸軍 南方軍(総司令官・寺内壽一元帥陸軍大将)方面軍約22万人
└―第14方面軍(司令官・山下奉文陸軍大将)13万人
│ └―旭兵団(=第23師団)
│ └―歩兵第64・71・72連隊
│ └―野砲兵第17連隊――第2大隊(久田主計少尉所属)
├―第4航空軍(司令官・富永恭二陸軍中将)約6万人
└―第3船舶輸送部隊(司令官・稲田正純陸軍少将)約1万人
海軍 南西航空艦隊司令部、第31根拠地航空部隊等 約6万5000人
<軍高級幹部 ルソン島から "逃亡" >
――岩波現代文庫『戦争と戦う』p136――
米軍の上陸を前にして、貧弱な日本守備軍の状況に見切りをつけて、軍の高級幹部は続々とルソン島を離れていく。
口実はいろいろつけているが、勝てる戦でないことがはっきりしている以上、高級幹部が自己保身に動くのは、これまでの帝国軍隊の行動パターンからして当然の成り行きであった。
<南方軍寺内総司令官 ルソン島からべトナムのサイゴンへ "逃亡" >
――岩波現代文庫『戦争と戦う』p136――
まず、1944年11月17日、「レイテ決戦」に見切りをつけた寺内南方軍総司令官はサイゴンへと去る(『レイテ決戦』p471)。
第14方面軍の上部組織である南方軍総司令部は、その所在地を幾度か変えている。
まず、1941年の南方作戦の開始とともに、サイゴンに総司令部が置かれるが、1942年7月、シンガポールに「進出」。1944年5月、「捷号作戦」発動を前にしてマニラに「進出」している。マニラ「進出」は、比島(フィリピン)作戦を重視して、最高司令部が前進することによる士気の鼓舞をねらったものであった。
ところが、レイテ作戦が終焉に向かい、やがて総司令部のあるルソン島にも米軍が上陸する日が近づいてくると、さっさとサイゴンに戻ってしまった。これでは、総司令部自ら、「ルソン決戦」 に見切りをつけたといわれても致し方あるまい。
ある新聞記者が「南方総軍の司令部はよく移動しますね」と問うと、南方軍の情報参謀は「総軍司令部は、できるだけ敵襲のない安全な場所で、安んじて三軍を指揮しなければなりません」と平然と答えたという(和田敏明『証言!太平洋戦争-南方特派員ドキュメント』p155)。
<第4航空軍富永司令官 ルソン島から台湾へ "逃亡" >
―――岩波現代文庫『戦争と戦う』p137―――
富永は、東條英機首相兼陸相のもとで陸軍省人事局長、陸軍次官を長く務め、東條の腰巾着といわれた人物である。東條が失脚すると、最前線に回された。
特攻機を送りだす際には、「最後の一機には予が乗っていく」と訓示していた。山下大将がマニラを放棄して山にこもる作戦を提起した時、「竹槍をもってでも四航軍はマニラでがんばるのだ」と叫んで、最後まで駄々をこねた。(辻本芳雄「富永軍司令官比島脱出の真相」p23)。
そして「最後の一機」の「公約」も反故にして、司令部要員も連れずに、九九式襲撃機に乗って台湾に飛び去った。この台湾行きは上級の南方軍総司令部の正式認可を待つことなく準備されていたというから(『戦史叢書・比島捷号陸軍航空作戦』p566)、はじめから認可がおりないことを知っての行動であった。
戦史上、軍司令官たる陸軍中将の敵前逃亡は例を見ない。第4航空軍司令部の暗号手をしていて、富永の台湾行きを記した軍機電報を最初に見た江崎誠致はいう。「その電文を手にしたとき、かっと体が燃えた。卑怯ではないか……」(江崎『ルソンの挽歌』p22)。
久田 富永のことについては、当時私たちはまったく知らなかった。戦場において逃げることは、即銃殺を意味した。法的根拠は陸軍刑法75条です。富永は、命令に違反して敵前逃亡したのだから、当然この規定に該当します。
水島 陸軍刑法42条には「司令官逃避1という規定がある。「司令官敵前二於テ其ノ尽スヘキ所ヲ尽サスシテ隊兵ヲ率イ逃避シタルトキハ死刑ニ処ス」と。
久田 軍隊という組織は最終的に死ぬことを要求する組織ですから、勝手に戦争をやめることを絶対に許さなかった。特に敵を前にして逃げることに厳罰を科したのです。逃げれば死刑だぞということで威嚇して戦わせたわけです。
水島 富永は、軍法会議にさえかけられていません。
久田 敵前逃亡を認定するのは上官ですから、その上官が実は先に逃げてきていて、それをごまかすために、後から来た部下を銃殺にしたというケースもあった。
陸軍刑法の諸親定は、上の者には限りなく甘く、もっぱら階級が下の兵士・下士官に厳しく適用されたといってよいでしょう。軍隊組織の「階級性」がよくあらわれていますね。
水島 富永に対する処分はきわめて軽く、予備役編入(1945年5月5日付)だけ。表向きは、病気が重く責任を追及しえないという理由、つまり心神喪失の故に刑事責任能力なしというわけでしょうか。
心神喪失のはずの富永は、すぐに召集され、中国の敦化に駐屯する第119師団の師団長になり、「無事」そこで「終戦」を迎えています。
久田 私は軍隊に対して常に斜めの姿勢をとっていたから、自分の命を大切に思って逃げる人間を非難するつもりはない。だが、多数の部下の生殺与奪の権限を持っている者が自分だけ逃げて、部下を置き去りにして死地に追い込んだのが許せんのです。
水島 富永の場合は、特攻機を342機も送り出した最高責任者ですからね。342機の内訳は、体当たり=148機、自爆=24機、未帰還=170機とされています(大江志乃夫『天皇の軍隊』p586)