川本ちょっとメモ

★所感は、「手ざわり生活実感的」に目線を低く心がけています。
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岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記 その7 飢餓状態の旭兵団

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<飢餓状態の旭兵団>
 ――岩波現代文庫『戦争と戦う』p253――

久田の所属する旭兵団は、1945年(昭和20年)3月段階で飢餓状態に陥り、ほとんど戦闘力を喪失するに至った。(『ルソン決戦』p309)。『第23師団(旭兵団)隷下部隊行動概要』には、2月下旬から4月下旬の師団司令部の状況についてこうある。

「工兵の数人は某日中食時一箇の飯盒を囲み互に箸を手にして茫然として該飯盒の底を凝視しあるのみ。当時食糧缺亡の為師団長以下将兵は、一般に朝夕の二回とし一椀の粥を畷りあったるものなるも、右工兵の如く力量を要する作業に服しあるものには、一日二椀の粥にては到底作業に従事し得ず。斯くの如くして3月下旬頃に至るや司令部の機能が全く破壊せられんとする様になった。正に於て各部は夫々米軍より糧食を求めんとし、戦力破壊消耗の目的以外に斬込を敢行する様になった」

ここから窺えることは、食い物を求めた「斬込み」までするに至った兵団の末期的状況である。司令部周辺にいる者にしてからが、この状態である。

方面軍の「尚武参電第124号」(3月29日発)によれば、「旭(兵団)ハ敵上陸以来ノ戦闘ニ拠リ人員装備ノ損耗ハ2分ノ1以下二減少シ 而モ『マラリヤ』患者ノ多発殊二給養不良(日量米50瓦こ達セス)ニ因り体力気力ノ衰耗甚シク其ノ戦力ハ3分ノ1以下二低下シアリ」(『ルソン決戦』p354)とある。

この(※1945年)5月下旬から6月にかけて、食糧事情は最悪になりました。私たちがポソロビオ東方丘陵陣地から携帯してきた糎珠はすでに米一粒も残っていませんでした。塩抜きの生活がはじまってからかなりたった。移動途中に運よく、現地人の籾などを発見して、鉄帽や臼などでついて、一週間に一度か、十日に一度食べられるのが精一杯。白米の飯など思いもよらない。ボントック道3キロ以東の山岳地帯に入ってからは、芋畑も容易に発見できず、仮に見つけても、すでに先着の兵隊が掘り起こして食べてしまった跡。残っている芋の根や葉をとってかじりました。

久田 味つけはどうしたかというと、昆虫のバッタか、沢蟹を捕まえて、小さな米粒大の唐辛子と混ぜて「ふりかけ」にして、炊いた粥にかけて食べた。いや、食べるというよりは喉を通したといった方が正確なところです。

動物性蛋白質をとるために、蛙、トカゲ、ヘビ……。何でも食べた。ヘビなどは普通の生活をしている時はギョとするでしょう。ここでは、ヘビを見つけるとみんなよだれを垂らして、目をギラギラさせて、パーツとつかんで食べてしまう。

日本兵が行くところ、ヘビも蛙もみんな食い尽くされてしまい、私たちが後から行ってもなかなか見つけられなくなった。それで、ガメ虫というのを食べた。これは銀色の大きな
カナブンみたいなやつで、これをバリバリ食べた。家の中に飛び込んできたガメ虫を、兵隊たちが奪い合って食べている光景を想像できますか。特に塩分の欠乏は、私たちにとって一番苦痛でした。アルコールや甘味を欲しいという欲求は起こらなかったですが、塩分の欠乏は大変苦しかったのです。

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2013-08-19 07:44:49 | Weblog

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    ※久田氏、水島氏の経歴は、8月14日『その1』をご覧ください。


<敗走中の服装と火種>
 ――岩波現代文庫『戦争と戦う』p244――

久田 「天長節」の日の夕方5時まで、草むらの中で死んだように眠ってしまった。そしてこの日の夕方5時頃、ボントック道を歩き、翌1945年4月30日の午前1時頃にボントック道21キロ地点に着きました。暗闇の中だったのでよくわからなかったのですが、敗走してきた日本軍が相当たくさん集結しているようでした。夜明け前にこの21キロ地点を右折して、私たちはどんどん進んだ。

敗走中の私の服装は、上衣なし、ズボンは膝下がちぎれ半ズボンより短かい。靴は底が抜けたので、皮の拳銃ケースで裏張りをし、拳銃の皮紐でしばったもの。フンドシがないので、衛生三角布です(笑)。戦闘帽は日よけ垂れつき。背嚢と図嚢。図嚢に何を入れていたか記憶にありません。それに天幕(テント)と毛布。兵隊用の飯盒。将校用の飯盒は飯
炊きに適しませんから。それと水筒、拳銃、軍刀、手榴弾1発。これだけです。

この敗走で特に目立ったことは、どの部隊も火種の移動に困っていたこと。火は食べ物を煮たりする等、ジャングルの生活でも必須のものです。マッチなどとっくに使いはたしていたし、レンズで太陽光線を集める方法も雨降りや夜には役立たない。そこで、兵隊たちが火種を移動する方法は、原始的なのですが、シャツなどの布切れを細く裂いて、細長い紐を編んで、首に幾回りにも巻きつけ、その先に火をつけて移動するという方法です。

水島 先生とずっと行動をともにしてきた1等兵の藤城友之氏(愛知県宝飯郡小坂井町在住)に確認してみたところ、この21キロ地点を右折して3キロほど入った、崖崩れになっている所で、各中隊が解散となり、その際に藤城氏は経理室から第2大隊段列に復帰したそうです。そして、藤城氏も歩兵64連隊所属となったそうです。

久田 藤城上等兵と都築軍曹は各自の中隊に戻るため、そこで別れました。経理室は私と酒井軍曹、それに高柳1等兵の3人だけになりました。私たちは大隊本部と別行動をとることにし、壕を掘らずに、茂みの中に枝で小屋掛けをして、その中で起居しました。近くで見つけたドラム缶で風呂をわかして、久しぶりに入浴した。

その頃、大隊は輸送隊になって、糧株を運ぶ任務についていた。野戦重砲兵連隊といっても大砲はなく、ただの歩兵です。銃も満足になかった。大隊は、再び前線の守備任務につくべく移動した。私は方向音痴なので、ここがボントック道を右折して山奥に入ったあたりであることはわかっていたのですが、明確な地点を指摘することはできません。

水島 先生たちは、旭兵団の歩兵64連隊と一緒に、カノーテ山付近にいたようです。連隊本部の神谷重義氏によれば、6月中旬の組織改編で、野戦重砲兵12連隊の残存兵力のほとんどが歩兵部隊の補充として転属し、連隊本部の一部が旭兵団の物資収集隊として、ボコト北方カラオ峡谷で籾取りに従事していたそうです(『成高子会』9号p10)。防衛研究所図書館所蔵の『第23師団将校名簿』(昭和20年8月15日)によれば、先生は最終的には、歩兵64連隊に所属していたことがわかります。


<1945年5月 カヤパ道の惨状――死体、死体、死体>
 ――岩波現代文庫『戦争と戦う』p246――

久田 この道に入って以降、一番悲惨だったのは、バギオ陥落前夜に命からがら脱出してきた傷病兵たちです。彼らは私たちが行く先々にヨボヨボ歩いていました。米軍の観測機が飛んできても、身を隠すだけの体力も気力もなく、そのままゆっくり歩きつづけるか、道端に坐り込んでしまう。だから、すぐ発見され、たちまち砲弾が飛んでくる。飛行機から爆撃される。そうしたことが度々ありました。

だから、私たちは傷病兵に追いつくと、目標になって巻き添えをくらうので、なるべく急いで彼らから離れた。とても彼らを助ける余裕はない。私自身が半病人のような状態でしたから。

水島 バギオ陥落時に動けない傷病兵が悲惨な目に会ったことは伺いましたが、脱出できた兵隊たちも悲惨な状況だったのですね。

久田 ボントック道12キロ地点を右折して山の中に入っていくにつれて、傷病兵は力尽きて行き倒れになっていました。山道のわき水が出ている所には、別々に五、六体の死体がある。

水に頭を突っ込んで、水を飲もうとした格好のまま死んでいる兵隊。川の淵に天幕を敷いて、毛布をかぶったまま死んでいる兵隊。毛布を剥いでみると、すでに白骨化している。岩の上に腰をかけて何事か考える格好をしたまま死んでいる兵隊。なぜ人間はこうも無造作に死ぬのであろうか。本当に自然に死んでいるのです。

道の前方から強烈な異臭がしてくると、この先に死体があることがわかる。しばらく行くと、道路脇に新しく掘った盛り土がある。その横を通るとハエの大群が私たちの顔にプアーツと飛びかかってくる。見ると、黒い手だけが焼けボックリみたいに、盛り土の中からこヨキッと出ている。戦友が埋めてやったが、昨日のスコールの土砂降りで土が流されてこうなったらしい。

さらに進んでいくと、狭い道をさえぎるように横たわっている兵隊の死体はすでに白骨化して、頭蓋骨と胴体とがバラバラになっている。認識票を見てもどこの部隊かわからない。

どの死体にも共通していることは、靴をはいていないことです。傷病兵の靴はあまり破損していないので、ここを通過する兵隊がはいていったのです。

水溜まりに落ちて死んでいる兵隊は、ちょうど石の地蔵のようにふくれあがって、生前の大きさは想像ができないほどになっている。休んでいるのかなと思って、「オイどうした」と肩を叩いたら、バタッと倒れてしまった。ちょうど背中におぶっている背嚢が重しになって、死んでも倒れないで坐ってたままの格好になっていたのですね。

21キロ地点を右折した道(カヤパ道)を敗走していく途中に見た死体の中に、一人として将校の行き倒れはありませんでした。

水島 先生は戦場で悲惨な死に方をたくさん見たと思いますが、ルソンの山中をさまよった作家の江崎誠敦は、『ルソンの谷間』で、「この作品は、人間の死ではなく、人間の死体の物語である。戦場で無数の死体を目撃した私は、人間の終焉に思いをいたすとき、死という概念よりも、死体という物質が先に浮かんでくる」と書いています(同書p275)。江崎のルソン戦場の死体描写は徹底していて、人間の肉体が腐敗して、徐々に滅びていく様を微細に描いています。

久田 私は文学者のように、悲惨な戦場の状況を描写することはできません。4月頃までは戦闘で死んだ兵隊をたくさん見た。肉の切れ端が木にぶらさがったり、腸が出た死体、手や頭が吹き飛んだ死体…。でも、今はそういう戦闘による死ではなく、行き倒れ、朽ち果てて死んでいる。昨日まで家族を思い、語り合った人間が、本当にあっけなく死んでいる。人間の尊厳が完全に消滅した世界です。


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