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母から聞いた1945年の空襲体験と食料事情と敗戦の日の気持ち
わたしの母は幼少時、大阪のJR吹田駅の近くで育ちました。その後小学校時代は父親の結核転地療養のために、大阪・堺市の海べりへ移住し、父親(わたしの祖父)は1934(昭9)年にそこでなくなりました。
母は1945(昭20)年、空襲を2回経験しました。どこで出会ったかは聞きもらしました。いろいろな話を合わせてみると、そのころ住んでいたらしい大阪市福島区、親類が住んでいた兵庫県尼崎市ではないかと思います。
母から聞いた1945年の空襲体験(2回)を簡単に列挙します。
●B29が来たらすぐわかる。その音が聞こえたら、爆弾(焼夷弾)が降ってくる。サァーッとものすごい音がする。
●祖母や、そのころ中学生くらいであった妹と弟と抱き合って伏せていたら、お尻のすぐ後ろで爆弾(焼夷弾と思います)が落ちた。不思議なことに家族はみんな無傷であったのに、ちょっと離れていた人がその爆弾で負傷した。あまりに近すぎて、伏せていた私らを爆風が飛び越えていったのだと思う。
●自分の腕を持って走って逃げている豆腐屋の奥さんを見た。頭から脳みそを垂らして歩いて逃げている人も見た。そういうときは、そんなんを見てもなんともないんや。今やったら卒倒するけどなあ。
●アメリカの戦闘機に追っかけられた。走って逃げて、そして伏せた。バリバリと音がして機銃掃射をされた。戦闘機が行き過ぎて起き上がってみたら、近くで小学生の女の子が撃たれて倒れていた。
1945(昭和20年)の食料事情について――。
母は食べるもの不足に苦しみました。当時、多くの都市住民が同じ苦しみを味わったはずです。ところが、そうでない人たちもいました。戦争体験にも不平等があります。
●母の話――。終戦前後は食べるものが無くて本当に苦しんだ。朝暗いうちに八百屋の前に行って、野菜のくずを拾ったこともあった。けれどもあるところにはあるもので、尼崎の親類の向かいに住んでいた陸軍の偉いさん、たしか少将だったと思うけれど、その留守宅の奥さんがやさしい人で、あるとき立派な魚をくれた。そのころ、そんな立派な魚を食べることなんてできなかった。
●義母の話――。義母は京都・修学院の大きな農家の子です。そのころの修学院は京都市中に近い農村地域でした。その義母は食べ物に苦労したことはないと言っています。空襲体験もありませんし、戦争のために苦しい思いをしたことはありませんでした。
●私が社会人となった会社の社長夫人の話――。社長は20才くらいのころにすでにお金儲けに成功していましたが、召集されて満州に行き、敗戦と共にシベリヤに抑留された後に無事帰還した人です。
あるとき社長夫人に、「留守宅では食べるものに困ったでしょう」と尋ねたところ、「困らなかった」と言いました。お金があったので困らなかったようです。そのころは千葉県に疎開していました。
ずっと後に社長に聞いた話では、お金もほぼ尽きて、「これからどうして生きていこう」と留守宅で思い悩んでいるときに、日本に帰ることができた。戦争で全部失っていたから、必死で物を売った。家族を養わなきゃならんもの、必死だった。シベリヤを経験していたから、ほかとは腹構えが違うよ。社長はそう言っていました。
1945年(昭和20年)8月15日、終戦を聞いて――。
母は言っていました。終戦(私は「敗戦」と呼んでいます)を聞いたとき、ものすごい脱力感と同時に涙が出た。泣いた。そして間をおかずに「終わったんや」というほっとした気持ちでいっぱいになってうれしかった、と。
終わった、やっと終わったと、ほっとした気持ち――安心感につながる気持ちを持ったという話はほかでも聞いたことがあります。希望の無い、耐えるだけの、苦しい生活からの解放は「喜び」であったに違いありません。
1945年夏、皇居前で正座して泣く人の映像を何度も見ています。毎年、この季節に、同じような映像が流され、写真が新聞なんかに掲載されます。
私は母の話を聞いてからは、皇居前で泣いている人が戦争に負けたことを悲しんでいるとは限らないと思うようになりました。「戦争が『終わった』という脱力感と安心感」は多くの人にとって共通の、偽りのない気持ちだったろうと想像します。