川本ちょっとメモ

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<トリニダット橋の惨状>
 ――岩波現代文庫『戦争と戦う』p230――

久田 1945(昭和20)年4月26日は米軍がバギオを完全に占領した日です。この日、私たちはバギオから10キロ離れたトリニダットの町はずれの林の中にいた。米軍がボントック道を進撃すれば、戦車で1時間とかからない距離です。早くここを脱出しなければならんが、私たちの先にはトリニダット橋があって、そこは4月15日頃に砲撃で破壊され、米軍が昼夜わかたず、5分間隔で、その橋の前後200メートルほどの区間を砲撃しっづけており、そこを通る部隊は必ずといってよいほど被害を受けているという。私はその難所に近づくにつれ、緊張で体が固くなるのが自分でもわかりました。

水島 そのトリニダット橋が破壊される瞬間を目撃した人がいます。日本赤十字救護班(第343班)の看護婦・石引ミチさんです。石引さんは、バギオの第74兵站病院から、1月28日にヴィクウィッチ金鉱の坑内に作った「病室」へ移って看護にあたっていました。そして、金鉱からボントック道90キロ地点に移動中、4月16日夜、このトリニダット橋に差しかかる。

「トリニダットの橋が見えます。たくさんのトラックや馬や、兵隊さんや、人びとがうごめいています。と、突然大爆音とともにトリニダットの橋が爆破されました。トラックのタイヤが舞い上がりました。だれかがしきりに『看護婦さあん』と呼んでいます」

「流れの早い川の中へ工兵隊の裸の肩が並び、丸太棒をつないだ橋が渡されました。……一列になって丸太橋を、おそるおそる渡りはじめました。流れで声が聞こえません。ようやくむこう岸まで渡り終えました」(石引『従軍看護婦!日赤救護班比島敗走記』p95~97)

久田 私がそこを通過するのは、それから10日ほど後ですね。4月26日朝4時頃、一番砲撃が少ないときを見計らって、私たちは出発しました。200メートルほど行ったところに馬が一頭倒れている。私の部隊は馬部隊でしたから、久しぶりに見る馬に懐かしくて近づくと、馬も首だけ持ち上げて、フウフウと白い息を吐いている。よく見ると、腹から腸が1メートル以上も外に出てしまっており、死にきれないでもがいていたのです。私たちの方に一所懸命すりよろうとして、「連れていってくれ」といわんばかりに、悲しい目をして私のことを見る。私も馬が好きでしたから、もう肉親みたいな愛おしさがこみあげてきた。でも、ぐずぐずしていると私たちがやられる。目をつぶってそこを離れました。今でも、その馬の悲しい目を思い出し、なんともいえん気持になることがあります。

トリニダット橋はそこから500メートルくらい行ったところにあった。道路脇にトラックが突っ込んでいて、運転席から黒焦げの兵隊が体半分ぶら下がっている。見ると、道路に死体がゴロゴロしている。

道路の左側の壕の中にも死体がたくさんある。物凄い死体の臭い。橋の下には10台以上のトラックが落ちていました。朝の4時で薄暗く、全体がどうなっているのかわかりませんでしたが、私が見ただけでも数十の死体があった。砲弾でやられた兵隊が一人、道端でうめいている。それに気を取られていると、足もとの死体につまずいた。

私は気がすっかり動転してしまい、一目散に駆け出してしまった。背中の背嚢は上下左右にパタパタ揺れ、腰の軍刀が足にからみつき、図嚢が腰を打つ。軍刀の柄を手でおさえて先端を上げて走った。どう見てもぶざまな格好です。橋と橋の前後200メートルの危険な箇所を一気に駆け抜けました。ホッとする間もなく、砲撃がはじまり、私が走ってきたあたりに着弾している。

トリニダット橋から少し先に行くと、道路脇に1人の兵隊がいる。「何をしているのか」と尋ねると、「あの砲撃されたトラックは海軍のトラックで、たくさんの食糧を積んであるので、砲撃の合間をみて、トラックに近づき食糧を取ってくるのです」という。「どこかの部隊の命令でやっておるのか」と聞くと、「自分は食糧がほしいからやっているのです。砲撃の間隔を調べて知っているから、むしろ敵中に斬込みにいくより安全です」とはっきりいいました。


<動けぬ傷病兵を殺害>
 ――岩波現代文庫『戦争と戦う』p233――

久田 トリニダット橋からしばらく行くと、一人の衛生兵長と一緒になりました。彼は自分がバギオで行った恐ろしい話を、歩きながら私にしてくれました。記憶にあるのは彼の次の言葉です。

「バギオが予定より一日早く陥落したので、野戦病院ではあわてて、病兵のうちで歩ける者は徒歩で脱出させ、歩けない兵隊は静脈注射をして殺害し、それでも間に合わなかったので、病院に火を付けて、病院もろとも焼き殺したのです。中には、何で殺すんか生かして内地へ帰してくれといって泣き叫ぶ兵隊もいました。私は見るに堪えず、逃げ出してきたのです」と。

水島 でも、将校である先生に、兵長が気軽に話しかけてくるというのは不思議ですね。普通、将校だと緊張して、そんなことおよそ話せないと思うんですが。

久田 私が主計であり、しかも軍隊に対して批判的だから、普通の将校に対するのとは違って、安心してしゃべってくれたのかもしれませんね。彼の話を聞いて、いずれ私も日本軍隊によって殺されるのか、と思い、暗い気持になったのを覚えています。

米軍戦史に次のような記述がある。「市の郊外沿いにいる少数の敵のグループがいつもの頑強さで抵抗したが、日本軍の完全な崩壊の証拠はまぎれもなかった。日本軍は、組織など殆どない状態で大急ぎでバギオを去った。補給品や資材の大量の貯蔵が夏の首都に隠されたままだった。日本軍の負傷兵はその病院のベッドの中で彼らの軍医に殺されるか、または看護もつけずに死ぬままに放置されていた」(『米陸軍第33歩兵師団戦史』p225)

別の箇所には、「(米)130歩兵連隊の斥候は、地下の平坦部が敵兵(※日本兵)の死体で一杯に覆われているのを見ることの方がもっと多かった。これらの死体のあるものは降伏よりも死を選んで自決したものだったが、大多数はバギオからの撤退を容易にするために、無情にも(※味方に)虐殺されたものだった。逃走する縦列の足を引っ張らないように、敵(※日本軍)は行動の鈍い(※自軍)傷病兵を殺して竪穴の中に投げこんだのだった」(同書P226)とある。

この傷病兵の殺害が行われたのは、第74兵站病院(病院長・久保隆三中佐)である。





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    ※久田氏、水島氏の経歴は、8月14日『その1』をご覧ください。


<1945年4月下旬>
 ――岩波現代文庫『戦争と戦う』p237――

水島 先生がボントックの山岳地帯に入った四月下旬という時期は、第二次大戦の終幕に近づいている時ですね。4月1日に米軍は沖縄に上陸しており、本土まであと一息というところまで来ている。

「天長節」の翌日(4月30日)にはヒトラーがベルリンの地下壕で自決し、5月8日にドイツは連合国に対し無条件降伏しています。そして5月31日、マッカーサー元帥は、日本本土進攻作戦準備を命令しています(九州進攻作戦=オリンピック作戦と関東進攻作戦=コロネット作戦)。


<「天皇陛下万歳」と言って死んだ者はいなかった>
<死んでいくものは必ず母親か子どもの名を呼んだ>
 ――岩波現代文庫『戦争と戦う』p237――

久田 私は戦場で敵味方無数の人間の死際の叫びを聞いてきました。腕がもげ、足の肉がえぐられ、内臓が露出する。体の血液が次第になくなっていくので、顔色が土色に変わっていく。そういう時、兵隊たちは、自分の最も親しい人の名を呼んで死んでいきました。

多くは「お母さん」であり、女房持ちは子供の名前を呼んだ。私がルソンの戦場で無数の「死」に出会ったが、誰一人「天皇陛下万歳」と言って死んだ兵隊はいなかった。

水島 第16捜索連隊の歩兵小隊長として戦っていた石田徳見習士官(後に東大法卒、農林省審議官)も、「天皇陛下万歳」と叫んだ将兵にはただの一度も出くわさなかったと述べ、こう書いています。

「弾があたると、誰でも、何か一言発するのが常であった。『いてえ!』とか、『やられた!』とか、意味のわかるのもあれば、意味の全くわからない音声もあった。なお余裕のある者は、一番親しい人の名を呼び、一番気がかりなことをいった。その際、父親や妻の名を呼ぶ者は、私の知る限り、一人もいなかった。必ず、母親か子供の名を呼んだ」(石田『ルソンの霧』p82)


<ダイエー創業者と「戦陣訓」「人間廃業」の戦場>
 ――岩波現代文庫『戦争と戦う』p240――

「ダイエー商法」で有名となった株式会社ダイエーの中内功会長も、盟兵団(独立混成第58旅団)の一軍曹として、「ルソン島の山中を、生きた屍のようなからだで、さまよい歩いていた」。中内氏は、六月六日未明の米軍陣地への「斬込み」の際、手榴弾の直撃を受け、大腿部と腕に負傷。

「からだ中に手榴弾の破片を打ち込まれ、傷口にハエがたかり岨虫をわかせながら、山中を逃げていた。食糧はない。食べられそうなものは、何でも口に入れた。アブラ虫、みみず、山蛭、そんなものも食べ尽くすと、靴の皮に雨水を含ませて、噛みしめた。全員が栄養失調になり、マラリアにかかり、山道にうずくまり、一人また一人と死んでいった。夜、隣で話していた者が、朝には冷たくなっていた。……」。

中内氏はいう。「戦陣訓」の「生きて虜囚の辱を受けず」(捕虜になるくらいなら死ね)という一言が、どれだけの重みをもち、どれだけの兵隊を死なせたか、と。そして、自身、「ルソンの山中を幽鬼の如きになりながら、傷に蛆をわかせ、たれ下がった大腿の肉を切り捨て大地を這いつくばっても戦いつづけ、捕虜にはならなかった」。

中内氏は、ルソン島戦場体験の結果、人間は観念だけでは生きられない、飢えていては何もできない、本音で生きたい……。その思いが、その後のスーパーマーケット事業の原点になったという(中内「私の出会った本――『戦陣訓』」『世界』1985年5月号p14~17)。

久田 「戦陣訓」の「生きて虜囚の辱を受けず」のくだりが、どれだけの兵隊の生命を奪ったかわからない。こんな言葉のためにどうして、と思うかもしれませんが、「捕虜になるのは恥だ。潔く死を選べ」という日本人的発想法に逆らうことの方がむしろ困難だった。


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