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川本ちょっとメモ

★所感は、「手ざわり生活実感的」に目線を低く心がけています。
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   ※久田氏、水島氏の経歴は、8月14日『その1』をご覧ください。



<戦争の美化――本土地上戦阻止に役立った>
 ――岩波現代文庫『戦争と戦う』p316――


久田 私の部隊は、「満洲」を出るとき1738名いたが、生存者は331名にすぎない。わずかな違いで、私はルソン島の土になっていたかもしれない。この331名のうちの一人に入ることが出来たのは、まったくの幸運だとしかいいようがない。

私の部下であった丸山、高柳、酒井、みんな死んでしまった。戦闘というより、一方的屠殺です。しかも、最後は山の中で病気と飢餓で死んでいった。

これは戦争とはいえない。なぜ、早くやめなかったのか。これがずっと私がこだわってきたことです。

水島 でも、ルソン戦関係の書物を読むと、きまって、米軍の本土上陸のための決戦師団を長期にわたってルソンに拘束した意義は大きい、といった叙述が出てきます。たとえば、鈴木昌夫氏の『米軍日本本土上陸を阻止せよ――歩兵第72聯隊(旭128部隊)ルソン島戦闘記録』などはその典型です。

日本本土上陸予定師団29個師のうち、ルソン島に拘束した師団は10個師(旭兵団が交戦したのは7個師)。「比島全戦域に於ける戦没者は約50万名であるが、この戦没者は全員が『米軍の日本本土強襲上陸阻止』という方面軍の最終目的のため犠牲となった。

 不幸にして戦は破れたとはいえ、結果として祖国の同胞を悲惨なる本土地上戦の惨禍を被らしめないよう米軍主力を最後まで拘束したことは、その目的を達成したものと考えるべきであり、戦没者の執念は達成されたものと信ずる次第である」(同書p122)と。

<終戦先延ばしは国体護持(天皇制の維持)のため>

久田 たしかに山下(方面軍)はルソン島に出来るだけ米軍を「拘束」して、本土上陸を遅らせるという「持久戦」の方針だったが、本土上陸を阻止できたといえるのか、きわめて疑問ですね。東京、大阪をはじめ主要都市はB29の空襲でほとんど廃墟になっていた。

また、7月26日にポツダム宣言黙殺声明を出してから約3週間の間に、広島、長崎の原爆投下、ソ連軍の参戦による「満洲」や北方地域等での悲劇……。これでどれだけ多くの日本人が死んだか。

国民は一日も早く戦争が終わることを望んでいたわけです。「持久」をやって、「終戦」を遅らせたのは、「国体護持」(天皇制の維持)のためだった。国民のためではけっしてない。

<戦争の美化を死者は喜ばず>
 ――岩波現代文庫『戦争と戦う』p318――

 水島 「米軍の日本上陸を阻止せよ」ということを信じ、ルソン島の日本軍は飢死の代償とした。だが、日本本土は米空軍の重爆撃機B29の執拗な爆撃を受け、東京、大阪、名古屋の三大都市は焦土となり、「日本本土は、すでに空から“上陸”されていた」(高木・前掲『ルソン戦記』p532)というわけですね。

 小川氏も、米軍を8カ月拘束したことは特記に値するが、「一国の戦略としては、このような局部的、消極的成功が讃えられてよいはずはない。軍上層部の前近代的思想と感覚と野心と思い上がりのため、これ程多くの人命が犠牲になったことをどうして誇ることができようか」(小川・前掲書p175)と書いています。

久田 私も同感です。ただあえていえば、ルソン島で死んだ兵士たちは無駄死だったという視点が必要だと思うのです。

本土上陸阻止の目的を達成したから無駄死ではないといっても、死者はけっして喜びません。私のまわりで死んでいった兵隊は、こんな馬鹿な戦争で死ねるかといって死んでいった。

「本土上陸を阻止した」という形で、あの戦闘を美化することは許されない。戦争目的からすれば無駄死だったという事実をおさえ、そういう無駄死に追い込んでいった者たちの責任、指導者たちの戦争責任の問題を追及しなければならない。

そのうえで、ルソンのあの多大な犠牲は、平和憲法を生み出す大きな礎になったのだ。こう考えるべきだと思うのです。ルソンで死んだ私の部下や、多くの兵士たちの死は、平和憲法のためには無駄ではなかった、と。私はこの点を戦後、ずっと訴えて、憲法学の研究・教育に関わってきたのです。


<『国土防衛』はルソン島の惨状を日本国土にもたらすだろう>
 ――岩波現代文庫『戦争と戦う』p319――

水島 鈴木氏は、ルソン戦について、①自衛隊の任務である「国土防衛」 の前哨戦としての性格を持つこと、②ルソン島は地形、地域の広さが日本本土に類似しており、自衛隊と近似の兵力で「対上陸作戦」を戦った数少ない貴重な戦史であること、を指摘しています(前掲書「著者よりのお願い」)。つまり、ルソン戦を、対ソ防衛戦闘のための「戦訓」 にするという立場です。

久田 同じ戦場で苦労したのだろうが、その戦場体験をどう活かすかという点で、私とはまったく異なります。ルソン島の惨状を、自衛隊は日本の国土で展開しようとしている。ルソン島でも民間人が道づれになって大勢死んでいるが、今度は日本の国土ですからね。守るものは何か。自衛隊は「自由を与え得る国家体制」(昭和56年版防衛白書p102)を守るといっておるが、これは戦前の「国体」と同じですよ。


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  ※久田氏、水島氏の経歴は、8月14日『その1』をご覧ください。



<フィリピン方面戦没者50万人>
 ――岩波現代文庫『戦争と戦う』p315――

水島 先生が参加された「ルソン決戦」は9月3日の降伏調印で終わったわけですが、「レイテ決戦」を含む比島(フィリピン)方面での戦没者の総数は、陸海軍合わせて49万8600名(8月15日以降の戦没者12000名を含む)という膨大なものです(厚生省1964年3月発表数字・『ルソン決戦』p687)

つまり、「満州事変」以来の15年戦争期間中の中国戦線の戦没者総数50万2400名(「満洲」+中国本土、8月15日以降7万1300名を含む《『日本の戦争・図解とデータ』p21より》)に匹敵する数の将兵がフィリピンで戦死したわけです。

しかも、いわゆる「損耗率」――人間を機械か物みたいにみるこの表現は嫌いなのですが――という点から見れば、比島(フィリピン)方面作戦の全参加兵力が63万0967名(陸軍50万3606名、海軍12万7361名)ですから、それは79パーセントにも達します。

先生が参加された北部ルソン戦を戦った「尚武集団」(山下大将直率)は全兵力15万2000名に対して、「終戦」時、5万5000名しか生存していませんでした。

小川哲郎氏は、先生も最後に立て籠った尚武の復廓陣地内の戦没者数を12万7300名、その九割が餓死・病死だと述べています(小川・前掲『北部ルソン戦・後篇』p174)

一方、マニラ方面の振武集団は全兵力8万に対して、生存者は6300名(「損耗率」92パーセント)。クラーク東方の建武集団は3万に対して、生存者はわずか1500名(同95パーセント!)です(前掲書データ59)。

久田 私の部隊は、「満洲」を出るとき1738名いたが、生存者は331名にすぎない。わずかな違いで、私はルソン島の土になっていたかもしれない。この331名のうちの一人に入ることが出来たのは、まったくの幸運だとしかいいようがない。

私の部下であった丸山、高柳、酒井、みんな死んでしまった。戦闘というより、一方的です。しかも、最後は山の中で病気と飢餓で死んでいった。

これは戦争とはいえない。なぜ、早くやめなかったのか。これがずっと私がこだわってきたことです。


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