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※久田氏、水島氏の経歴は、8月14日『その1』をご覧ください。
<終戦命令~降伏調印 この間の死者は1万2000名以上>
――岩波現代文庫『戦争と戦う』p295――
8月15日の「終戦」がルソン島山岳地帯奥深くの久田らに伝えられるまで、多くの時間を要した。各種の記録・手記にも、8月上旬、特に10日前後から米軍の砲撃が少なくなったことが記されている。しかし、まだ「停戦」 の命令はない。
飢餓状態は一層激しくなり、毎日のように餓死者、病死者が出ていた。駿兵団(第103師団)砲兵隊の前田武次郎准尉の残した日記には、「食べル物ハナイカト、誰ノ目モ光ッテ居ル」(八月二〇日付)、「斃レル者ノ全部ガ、食糧不足二依ルモノデアル。此ンナ悲惨ナ光景ガ、此ノ世ノ中二又トアルダロウカ。米ガ欲シイ。塩ガ欲シイ。煙草ガ欲シイ。現地砂糖ガ欲シイ。食べタイ」(八月二七日付)とある(前田『比島飢餓行軍日記』p81、83~84)。
方面軍司令部では8月15日の時点で、「終戦」の放送をキャッチしていた。天皇の軍隊は「奉勅命令」がなければ戦闘をやめるわけにはいかないという「原則」に固執して、方面軍(※司令官・山下奉文陸軍大将)は「終戦」の事実を兵隊たちには知らせずに密かに降伏の準備を進めていた。
旭兵団(司令部)が「終戦」 の命令を知ったのは8月23日頃。西山師団長が各部隊長に「終戦」の命令を伝えたのは8月26日である(『ルソン決戦』p529)。久田が「終戦」を知るのもこの頃である。だが、実際に山下大将らが最後の司令部
所在地(3RH)を出発するのが8月31日、降伏文書に調印したのは9月3日。そしてルソン島の日本軍に「終戦」の報がはぼ伝わったのは9月中旬のことだった。
山奥で連絡が遅れるという事情を差し引いたとしても、なぜ降伏調印まで3週間近くもかかったのか。それは、サイゴンの南方軍総司令部が、現地軍の最高指揮官である山下大将に降伏調印の権限を与えるのに時間を要したからである。この期に及んでも、まだ帝国軍隊の形式主義は生きていた。
この1ヵ月近くの間に、「終戦」を待ちつづけてきて命を落とした人や、「終戦」を知らず自決した人、せっかく生きて「終戦」の報に接しながら、医療品や食料のない状態の中で命を落とした人……。8月15日以降の死者は1万2000名以上と言われている。
<死んでいった兵隊や仲間への涙>
――岩波現代文庫『戦争と戦う』p298――
水島 各種手記や戦記に出てくる(終戦を知った)その瞬間の描写のパターンは、悔しさのあまり泣き崩れる者、徹底抗戦を叫ぶ者、茫然自失・悲憤の涙……というのが多いのですが、先生が「終戦」の報に接した時は……。
久田 涙が出ました。でも、私は負けたこと自体は全然悲しくなかった。しかし、やめるなら、なぜもっと早くやめなかったのか。それまでに死んでいった仲間や部下のことを考えると、悔しさのあまり涙が出てきたのです。
6月までは誰々が生きていた。その前にやめれば誰と誰が生きていた。1カ月前だったら、高柳も死なんですんだかもしれない……。死んでいった兵隊や仲間のことが、走馬灯のように頭の中に浮かんでは消えた。私の涙は、なんのため今日まで逃げまわってきたのかという疑問と、死んでいった兵隊たちへの涙でした。
<旭兵団の生還者数>
――岩波現代文庫『戦争と戦う』p292――
(連隊名) (総人員)(生還)(戦没)(損耗率)
歩兵64連隊 7677名 834名 6843名 89.1%
歩兵71連隊 4728名 994名 3734名 79.0%
歩兵72連隊 5466名 429名 5037名 92.2%
野重12連隊 1738名 331名 1407名 80.6%
計 19609名 2588名 17021名 86.8%
※野戦重砲兵12連隊は厚生省名簿による。