川本ちょっとメモ

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久田栄正――飢餓戦線体験が生んだ憲法観 その1

2013-08-28 02:07:25 | Weblog

 ※久田氏、水島氏の経歴は、8月14日『岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記 その1』をご覧ください。


<戦争放棄条項――飛び上がるほど嬉しかった>
 ――岩波現代文庫「戦争と戦う」p376――

ルソンの戦場から復員してきても、新たな米ソ戦争の不安に落ち着かない日々をすごしていた久田は、日本国憲法草案の戦争放棄条項を見て、「飛び上がるほど嬉しかった」。

「私の戦争体験は、旧憲法から新憲法への転換を何の抵抗もなしに、むしろ心からの歓迎の念をもって受けいれ、その後の私の憲法実践を決定づける要因となった」(久田『戦争と私』p220~221、同『帝国憲法史』p2~3)

反骨精神旺盛な父親から影響を受け、幼年期から、権威と暴力(それを体現した軍隊)を嫌悪し、軍隊から逃避し、ついに軍隊に取られても、軍隊に同化することを拒否しつづけた久田栄正。

彼はルソンの戦場でも、徹底的な「順法闘争」と「開き直り」の姿勢で生き抜き、「自分の生命を守るために、他人の生命をも尊重する論理」、いわば「戦場で生き残る権利」を探し求めた。


<軍の論理に対置する民衆の論理――何よりも生命が大切>
 ――岩波現代文庫「戦争と戦う」p376――

戦場という極限状況のもとで、この論理は一見背理のようにも思える。この「権利」は既存の軍法や軍紀と決定的に対立する。

しかし、沖縄戦の中でも、ドタン場に追い詰められた沖縄防衛隊(家族持ちの平均的沖縄人からなる)のかなりの人々が、「命(ぬち)どぅ宝」(生命こそ宝)と叫んで、雪崩をうって戦線を離脱して、妻子のもとに逃げ帰ってしまった事実があることに注目したい。

この「命どう宝」というのは沖縄民衆の中に古くからある言葉で、「瓦全」の思想(玉となって砕けるよりも瓦となって全うしたい)、「逃げる思想」「開き直りの思想」である(大城将保『沖縄戦――民衆の眼でとらえる戦争』p203~208)

人間の生命を何よりも大切にするこの論理は、目的達成のために生命を捨てることを要求する「軍の論理」と対立するところの「民衆の論理」である。

久田が追求した論理も、この沖縄民衆の論理に通底するものを持っていたのではないか。

そして、沖縄民衆が求め、戦争によって倒れた多くの人々が求めてやまなかった「平和のうちに生きる権利」は、日本国憲法によってようやく保障されるに至った。


<憲法研究者の道を歩む>
 ――岩波現代文庫「戦争と戦う」p377――

ルソン島の戦場から生還した久田は、日本国憲法9条との「出会い」を契機として、憲法研究者の道を歩むことになる。

1952年に北海道学芸大芋(後の北海道教育大学)助教授となり、教授、札幌分校主事を務めた(1979年定年退官)。その間に久田の憲法講義を聴いた学生は膨大な数にのぼる。その多くが北海道を中心として、小中高校の教員となって活躍している。

平和主義を熱っぽく説く久田憲法学は、今も多くの教師の中に息づいている。また、北海道各地を行脚して、平和憲法擁護を説いた久田の講演を聴いた市民も相当数にのぼる。久田の憲法学は常に民衆とともにあった。



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