川本ちょっとメモ

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岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記 その15 こんな戦争なぜ始めた――昭和天皇の命令があったから

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<山下奉文大将 絞首刑>
 ――岩波現代文庫『戦争と戦う』p361――

水島 山下奉文大将の裁判は、マニラの軍事裁判所で1945年10月29日に開始され、12月7日に絞首刑の判決が下されています(絞首刑執行は1946年2月23日)。マニラやルソン島各地で行われた日本軍によるフィリピン住民に対する残虐行為の責任を問われたものです(詳細は、宇都宮直賢『回想の山下裁判』、ローレンス・テイラー『将軍の裁判』他参照)

<本間雅晴中将 銃殺刑>
 ――岩波現代文庫『戦争と戦う』p362――

水島 山下大将の死刑判決の法論理にはかなり無理がありますよね。特に、フィリピン人に 対する犯罪行為について山下大将の責任を立証できなかったので、「指揮官がそのような犯罪行為を摘発し制御するための効果的努力をしなかった場合」には責任を負うという論理をとった。「指揮官責任論」です。

また、開戦当時の第14軍司令官の本間雅晴中将も「バターン死の行進」の責任を問われ、死刑(銃殺)判決を受けたのですが(1946年1月3日裁判開始 → 2月11日死刑判決 → 4月3日処刑)、これもかなりみせしめ的要素が強かった。

日本軍がフィリピンでやったさまざまな犯罪行為の責任はなんら免罪されるべきではないが、両将軍に責任を収斂させて、これを性急に処刑したというのは、やはり「マッカーサーの報復」的側面があったことは否定できないのではないでしょうか。

<真の戦争責任はどこにあったのか>
 ――岩波現代文庫『戦争と戦う』p362――

久田 だから、私がいいたいのは、こんな戦争なぜはじめたのか、それは天皇の命令があったからだろう。

山下は、「天皇の忠実な下士官」でしかなかったから、自分の判断で戦闘をやめる決断さえできなかった。私は山下や本間を無理に処刑したのは、やはり戦勝国の裁判という面を否定できない。

私はこの戦争で最も被害にあったフィリピン民衆(私はデソンやデックスマン、その家族たちのことが頭にあった)。それと無理やり戦争に駆り出され、ぼろきれのように死んでいった高柳ら兵隊たち(日本の民衆)の立場から、真の戦争責任の追及をする必要があると考えています。

<昭和天皇の戦争責任>
 ――岩波現代文庫『戦争と戦う』p363――

水島 つまり、山下や本間を処刑した論理を突き詰めていけば、大本営やさらには天皇にまで責任を遡及させることができる。

しかし、天皇の戦争責任は問わないというアメリカ側(特にマッカーサー)の方針があったから、結局トカゲの尻尾切りで誤魔化したところに問題があった。そういうことですね。

久田 そう。これは東京裁判についてもいえる。天皇の戦争責任の問題を曖昧にしたところに、日本の民主主義の出発点にとっての最大の不幸があった。

だから、私が戦後、『帝国憲法崩壊史』や『帝国憲法史』を書いたのは、実は天皇の責任問題を明らかにしたかったからなのです。その一念から、憲法史の研究をやってきた。


コメント

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2013-08-23 10:55:30 | Weblog

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 ※久田氏、水島氏の経歴は、8月14日『その1』をご覧ください。


<飢餓戦線にあって丸々太って捕虜になった山下奉文陸軍大将>
 ――岩波現代文庫『戦争と戦う』p320――

久田 私は捕虜収容所で、山下大将の姿を見ました。我々の痩せ衰え、骨と皮だけの体とは対照的で、丸々太って、出腹の堂々たる体格をしていた。

彼は「終戦」の詔勅が出てから自決することなく、「ルソンにいる兵隊を一人でも多く内地に帰す大任が残っている」といって、「おめおめと」米軍の捕虜になった。

一人でも多くの兵隊を帰すというなら、天皇の命令が出るまで、なぜそのことに気づかなかったのか。数個師団を動かす権限を持っていた司令官だったのだから、ルソンにおける日本軍隊の崩壊が決定的になった時に、司令官の権限で降伏することだって出来たはずです。

天皇の命令が出てから自決することなく、敵手に入るくらいなら、なぜもっと前に降伏する決断が出来なかったのか。死んでいった部下たちのことを考えると、この点がなんとも悔しくてたまらないのです。

<最高指揮官(山下大将)の責任――ルソン戦没者の多くが病死・餓死>
 ――岩波現代文庫『戦争と戦う』p321――

水島 先生はどの時点に、ルソン島の日本軍の崩壊を見るのですか。

久田 上陸時点ですでにもう勝負ははっきりしていたが、少なくともバギオ陥落以降は、もはや軍隊同士の戦闘でない。飢餓線上の敗残兵の群れにすぎない。日本軍隊は崩壊していた。

私はバギオ陥落時点で降伏しても、けっして不名誉ではないと考えていた。ルソンの戦没者の多数は、バギオ陥落後の病餓死者です。この段階で降伏しておれば、何万もの兵隊を救うことができ、文字通り「ルソンにいる兵隊を一人でも多く内地に帰す大任」を果たせたはずです。

私は、軍人としての「軍事的合理性」から戦闘継続が無理と判断すれば、降伏を決断するのが真の大将軍だと思うのです。だが彼は天皇の命令があるまで、自分の判断でそれが出来なかった。だから私は、山下は大将軍でも何でもなく、「天皇の忠実なる下士官」でしかなかったというのです。

水島 山下大将は「マレーの虎」といわれ、「猛将」タイプの人というイメージが一般には強い。しかし、野戦型の将軍というよりも、「事務に精通した細心の幕僚タイプ」という評価もあります(今西英造『昭和陸軍派閥抗争史』p173)

いずれにしても、帝国軍隊には、兵隊や民間人の命を救うために、自分の意地とメンツを捨てることのできる将軍はいなかったのではないでしょうか(インパールで抗命した佐藤幸徳第31師団長のケースを例外として)。

久田 本当の勇気はやめることです。降伏したら汚名だと思うのはその時だけで、多くの兵隊や民間人を生還させたら、本当の大将軍です。降伏して死刑になっても、数万の兵士や民間人の命を救えていれば、気の狂うほどに「停戦」を待っていた兵士たちは、永久に彼のことを感謝したはずです。

水島 陸軍刑法第41条に、「司令官野戦ノ時二在リテ隊兵ヲ率イ敵二降りタルトキハ其ノ尽スヘキ所ヲ尽シタル場合卜雖六月以下ノ禁錮二処ス」とある。敵軍に降伏した場合、司令官は、理由の如何を問わず六カ月以下の禁錮刑に処せられる。こんな軍隊、他にないでしょう。米軍は、フィリピン帰還捕虜を一階級昇進させているのに。

久田 終戦でも、敗戦でもない。あれは帝国軍隊の崩壊だと、私は考えています。なぜもっと早くやめなかったのか、とルソンの山中で思いました。

<フィリピン住民をまきこみ日本国民も守れず>
 ――岩波現代文庫『戦争と戦う』p322――

水島 民間人の問題でいえば、マニラをオープン・シティにして、民間人を巻き添えにしないこともできた。いくら海軍との関係があっても、やるという姿勢さえあれば可能だったはずです。その決断が出来なかったために、フィリピン市民を虐殺し、マニラを廃墟にしてしまった。

また、マニラ・バギオを追われ、アシン河中流地域で自活した邦人は、マラリア、栄養失調、悪疫に倒れた。乳飲児の埋葬箇所を離れえない保障した母親、息を引きとった母の遺骸にすがりつく女の子……。

米軍投降勧告ビラを見て、米軍側に行くことを希望する邦人があらわれ、そのことを西副領事が山下大将に訴えると、山下は、「非戦闘員が個人として米側に走るものは致し方がないが、軍として米軍と交渉するのは、今のところ不可能である」といったそうです(栗原・前掲書p277~278)

小川氏は、「米軍と交渉して、彼らをその保護下に引き渡す方法が絶無だったとはいえない」 として、非戦闘員の多くを死に至らしめた山下の責任は免れないと述べています(小川・前掲書二七頁)

久田 山下だけの責任ではないが、彼が最高指揮官である以上、やる権限はあったし、やれたわけです。

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