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※久田氏、水島氏の経歴は、8月14日『その1』をご覧ください。
<山下奉文大将 絞首刑>
――岩波現代文庫『戦争と戦う』p361――
水島 山下奉文大将の裁判は、マニラの軍事裁判所で1945年10月29日に開始され、12月7日に絞首刑の判決が下されています(絞首刑執行は1946年2月23日)。マニラやルソン島各地で行われた日本軍によるフィリピン住民に対する残虐行為の責任を問われたものです(詳細は、宇都宮直賢『回想の山下裁判』、ローレンス・テイラー『将軍の裁判』他参照)。
<本間雅晴中将 銃殺刑>
――岩波現代文庫『戦争と戦う』p362――
水島 山下大将の死刑判決の法論理にはかなり無理がありますよね。特に、フィリピン人に 対する犯罪行為について山下大将の責任を立証できなかったので、「指揮官がそのような犯罪行為を摘発し制御するための効果的努力をしなかった場合」には責任を負うという論理をとった。「指揮官責任論」です。
また、開戦当時の第14軍司令官の本間雅晴中将も「バターン死の行進」の責任を問われ、死刑(銃殺)判決を受けたのですが(1946年1月3日裁判開始 → 2月11日死刑判決 → 4月3日処刑)、これもかなりみせしめ的要素が強かった。
日本軍がフィリピンでやったさまざまな犯罪行為の責任はなんら免罪されるべきではないが、両将軍に責任を収斂させて、これを性急に処刑したというのは、やはり「マッカーサーの報復」的側面があったことは否定できないのではないでしょうか。
<真の戦争責任はどこにあったのか>
――岩波現代文庫『戦争と戦う』p362――
久田 だから、私がいいたいのは、こんな戦争なぜはじめたのか、それは天皇の命令があったからだろう。
山下は、「天皇の忠実な下士官」でしかなかったから、自分の判断で戦闘をやめる決断さえできなかった。私は山下や本間を無理に処刑したのは、やはり戦勝国の裁判という面を否定できない。
私はこの戦争で最も被害にあったフィリピン民衆(私はデソンやデックスマン、その家族たちのことが頭にあった)。それと無理やり戦争に駆り出され、ぼろきれのように死んでいった高柳ら兵隊たち(日本の民衆)の立場から、真の戦争責任の追及をする必要があると考えています。
<昭和天皇の戦争責任>
――岩波現代文庫『戦争と戦う』p363――
水島 つまり、山下や本間を処刑した論理を突き詰めていけば、大本営やさらには天皇にまで責任を遡及させることができる。
しかし、天皇の戦争責任は問わないというアメリカ側(特にマッカーサー)の方針があったから、結局トカゲの尻尾切りで誤魔化したところに問題があった。そういうことですね。
久田 そう。これは東京裁判についてもいえる。天皇の戦争責任の問題を曖昧にしたところに、日本の民主主義の出発点にとっての最大の不幸があった。
だから、私が戦後、『帝国憲法崩壊史』や『帝国憲法史』を書いたのは、実は天皇の責任問題を明らかにしたかったからなのです。その一念から、憲法史の研究をやってきた。