川本ちょっとメモ

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岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記 その17 中曽根元首相の戦争体験と改憲論

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<中曽根元首相の戦争体験と改憲論>
  ――岩波現代文庫『戦争と戦う』p374――

戦争体験を次の戦争のための教訓として使う人々もいる。旧軍人(特に参謀クラス)の中には、「こうすればよかった」「ここがまちがっていた」式の議論をする者が多い。この立場は、今度やる時は「もっとうまくやる」ことを含意している。

自分の戦争体験について、盛んに語っている人がいる。中曽根康弘元首相である。中曽根氏はテレビ朝日の「総理と語る」 の中で、「われわれの世代は戦争で鍛えられている。あれだけの大悲劇のなかで、人生をじかに握ったり、触ったりできた。いまの若い人にそういう経験がないのはかわいそうだ」(『朝日新聞』1985年9月25日付)と述べた。

若くして衆議院議員となった中曽根氏が一貫して改憲論を展開してきたことは周知の通りである。彼の憲法論は、「高度民主主義民定憲法草案」(1961年1月1日)に凝縮されている。

その最大の特徴は、首相を直接国民投票で選び、「大衆本位の強力政権」をつくることにある。プレビシット(国民投票)型民主制の志向である。

討論と妥協、派閥論理が支配する議院内閣制から、大衆の直接的支持、大衆の歓呼(アクラマテオ)にもとづく強力な執行府(プレビシット民主制)への移行。

これがこの人の一貫した目標だった。そして、これはヴァイマール民主制を葬ったヒトラー政権が登場する際の論理と手法によく似ている。四分の一世紀前に出された中曽根氏の憲法構想は、今も彼の言動のベースにあって、これを規定しているのであろう。

では、当の中曽根氏はどんな戦争体験をしたのだろうか。この点に着目したのは、『月刊プレイボーイ』誌の編集者だった。若い編集者たちは、この「戦争大好き首相の原点=戦争体験を検証する必要がある」との問題意識から、中曽根首相の戦争体験を「徹底調査」した。その成果が、「中曽根海軍主計大尉殿、あなたの戦果はワニ1頭」(『PLAYBOY日本版』1986年4月号p50~57)というレポートとなった。

副題には、「ダパオ(フィリピン)、バリクパパン(ボルネオ)で敵前上陸を共にした坂口兵団の将兵が、ビルマで玉砕戦を続けていた頃、台湾で女子挺身隊員を引率して、海水浴をさせている。若き海軍主計大尉がいた……」とある。中曽根氏の戦争体験なるものの実態についてはこのレポートに譲る。

中曽根氏は、1941年3月東大法学部卒業後、内務省に入り、海軍経理学校 → 海軍主計大尉という道を歩む。そして、戦争中は台湾や日本国内勤務が長く、「大した苦労もせず復員した」。

<川本の聞書き――捕虜を逃がす>

私が聞いた中国派遣軍の兵隊経験者の中には、「中国軍に武装解除を受けたときでも、負けたこっちの方が立派なんや」という人がいました。

私の養父(故人)は京大出身で速成の少尉でしたが、武器弾薬・食糧に困ったという話を聞いたことはありません。

養父からは印象に残るこういう話を聞きました。捕虜を銃剣で刺殺するのがあたりまえの時代のことです。

「あるとき、中国人捕虜を預けられた。それが自分の弟にそっくりだった。放っておけば必ず銃剣で殺される。それで夜のうちに逃がした」。

中国の占領地において一般住民と兵士の判別が難しいという事情があったでしょう。加えて、そういう温情を生かせるほどの、南方ほど厳しくない戦場に居たということでしょうか。

養父はこんなことも言っておりました。

「士官学校出は危なくてしようがない。弾が飛んでこようが何しようが、行け行けや。みんなすぐに死んでしまう。ぼくはみんなに(部下に)、弾がどんどん飛んでくるときは、出るな出るなと言っていた。士官学校出の隊長に付いたら死ぬ奴が増える」

養父は当時の水筒を持っていて、1カ所だけ少しへこんでいました。私が中学生のころに、「大切な記念品や、おまえにやる」と言って、私にくれました。その後何度かの引っ越しをするうちに、どこかでそれを失いました。養父の気持ちを思いやると、後悔が深く残ります。


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岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記から18完 人間が人間として生きられぬ社会をつくってはならない

 ※久田氏、水島氏の経歴は、8月14日『その1』をご覧ください。

<日本人の子どもを殺した日本軍>
 ――岩波現代文庫『戦争と戦う』p409――

第14方面軍野戦貨物廠の一部隊は敗走途上で、足手まといになった日本人の子ども21人(うち13人は10歳以下)を毒物と銃剣で殺害した。

その資料がフィリピン国立公文書館で発見され、大きく報道された(共同配信、『中国新聞』1993年8月14日付、『朝日』『毎日』同日付)

「子供たちが泣き声を上げたりすると敵に所在地を知られるため」という理由を部隊指揮官が供述したという。


<フィリピン住民を殺した日本軍>
 ――岩波現代文庫『戦争と戦う』p409――

前著で十分でなかったのは、「帝国と植民地」の視点だろう。久田氏が帝国陸軍の一員であり、フィリピンの人々を支配する側にいたことは否定しようがない。前著で私はその点を久田氏に質問したが、私の関心が日本軍隊の内部構造の問題にあったため、フィリピン側からの視点が弱いと言えば、その通りだろう。

その点、上田敏明『聞き書きフィリピン占領』(勁草書房、1990年)は、26歳の若い業界紙記者がフィリピン各地で、日本軍に家族を殺されたり、拷問を受けたりした約70人に取材してまとめた力作である。

「この間題は他人事でも過去の事でもありえない。そして軍命を第一とし無抵抗の住民を死に追いやった個々の兵士の士責任は、国家と人間とどちらを優先するかという意味合いで戦後の世代にも問われていく問題であろう」と書いている。

戦争犠牲者を心に刻む会編『日本軍はフィリピンで何をしたか』(東方出版、1990年)は、バダンガス州リパやラグナ州カランバなどでの住民虐殺の当事者たちの証言である。

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