■【きょうの人】 0121 崇伝 空海 日朗
本日、ゆかりの人をご紹介します。
歴史上で活躍したり、仏教など宗教関係の人であったり、ジャンルはいろいろですが、彼等から、学ぶところが多々ありますので、それをご紹介します。
■ 崇伝(以心崇伝)
いしんすうでん 永禄12年(1569年)-- 寛永10年1月20日(1633年2月28日)
安土桃山時代から江戸時代の臨済宗の僧で、字は以心、法名が崇伝で、南禅寺金地院に住したため、金地院崇伝(こんちいん すうでん)とも呼ばれます。俗姓は一色氏。
寛永3年(1626)に後水尾天皇の師となり本光国師の称が授けられました。
徳川家康のもとで江戸幕府の法律の立案・外交・宗教統制を一手に引き受け、その権勢から黒衣の宰相の異名を取りました。
崇伝が起草した「武家諸法度」は、老中以下諸大名の前で崇伝により布告されました。徳川家光、徳川忠長の諱は崇伝により名付けられました。
僧侶としてだけではなく非常に優秀なブレーンとして家康をささえ、その能力に対する信頼は厚いものでした。
自分の上司から信頼されると、実力以上の物を発揮できるビジネスパーソンが多いです。部下を使う人の能力や努力によって、部下の能力をどこまで引き出せるかが決まるようです。
一方で、上司に評価されると周囲からのやっかみも出てくることも多いです。
他方で、自分の能力を過信しすぎて、鼻持ちならない人間になってしまうこともあります。その様な時というのは、自分では、それに気づかないことが多いですね。
■ 弘法大師 空海
こうぼうだいし くうかい 宝亀5年(774年)-- 承和2年3月21日(835年4月22日)高野山にて入寂
空海は、平安時代初期の僧侶で、弘法大師の諡号(921年、醍醐天皇による)で知られ、真言宗の開祖です。能書家としても知られ、嵯峨天皇・橘逸勢と共に三筆のひとりに数えられています。
讃岐国に生まれ、はじめは経書を学び、20歳で出家しました。延?22年に東大寺戒壇院で具足戒(出家した修行者 が遵守すべき戒)、翌年唐に渡り、新語温州の協議を受けました。大同元年に帰朝し、真言宗を広め始めました。
空海は、最澄としばしば比較され、最澄が空海に教えを請うたときに、冷たい態度を取ったということが語られます。
真偽の程はわかりませんが、ちょっとした言動が、後々までマイナスのイメージに繋がることがありますので、気をつけなければいけませんね。
■ 日朗
にちろう 寛元3年4月8日(1245年5月5日)- 元応2年1月21日(1320年3月1日)
鎌倉時代の日蓮宗・法華宗の僧で、日蓮六老僧の一人です。号は筑後房、大国阿闍梨とも称します。日朗門流・池上門流・比企谷門流の祖です。下総国の出身、父は平賀有国です。
1261年(文応2年)日蓮を師として法を学び、1271年(文永8年)日蓮の流罪の際に、土牢に押込となりました。
1274年(文永11年)佐渡に流罪となっていた日蓮を8回も訪ね、赦免状を携えて佐渡に渡っています。但し、これは伝承で幕府の公文書である赦免状を流罪者の弟子に託すことはあり得ず、誤伝である可能性が高いといわれています。
日蓮滅後に、久遠寺の墓所にあった日蓮所持の釈迦立像を、日蓮の遺言に背き勝手に持ち去っています。
1282年(弘安5年)池上宗仲の協力のもと、池上本門寺の基礎を築きました。1309年(延慶2年)千葉胤貞の妻より、土地の寄進を受け、本土寺を建立しました。鎌倉光則寺は、1274年に、日朗を開祖として創建されました。
光則寺 http://www.glomaconj.com/butsuzou/meisho/kanagawa/kanagawa-kamakura-kousokuji.htm
1320年(元応2年)安国論寺にて荼毘に付され、法性寺に葬られました。