◆【お節介焼き情報 一口知識】 なぜ、明暦の大火は「振袖火事」と呼ばれるのでしょう
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■ なぜ、明暦の大火は「振袖火事」と呼ばれるのでしょう
1657(明暦3)年1月18日に、火事の多い江戸ですが、そのなかでも「明暦の大火」は有名な火事として知られています。
江戸城の天守閣を含む市街のほとんどを焼失し、死者が10万人にも達したと記録されています。
明暦の大火は、振袖火事とも言われますが、その由来は何でしょうか。
17才になる町家の娘が、偶然遇った美少年に一目惚れをしてしまいました。
当然のことながら、寝ても覚めてもその男のことが頭から離れません。
その男が来ていた着物と同じ柄で振り袖を作ってもらいました。
しかし、はかなくも恋の病から命の炎までも失ってしまったのです。
哀れに思った両親は、その着物を着せて柩に収めました。
なんと、その男は、東京文京区にある本妙寺の寺男で、その男は、その着物を古着屋に売り飛ばしたのです。
その着物は、何も知らない別の17才の娘の手に渡りました。はじめの娘のたたりなのか、その娘が袖を通した瞬間に死んでしまったのです。
柩にその着物が掛けられ、同じ寺に持ち込まれたのですが、その寺男は、また古着屋に売って、小銭を稼ぎました。それがまた別の17才の娘の手に渡り、同じように直ぐに死んでしまったのです。
柩に同じ着物が掛けられて運び込まれたのを見て、さすがに寺男は心配になり、住職に相談したのです。
住職は、読経しながら振袖を火に投ずると、一陣の風が吹き、火が付いた着物が空遠く舞い上がりました。
それが本堂の屋根に落ちると、瞬く間に庫裏にも飛び火し、それが大火になってしまったのです。
文京区は、江戸城のある千代田区の北側に隣接していますが、強い北風に煽られ、江戸城本丸天守閣までも類焼してしまったのです。
江戸の半分以上が焼失、10万人以上の人が亡くなりました。
この明暦の大火は、いつしか「振袖火事」と呼ばれるようになりました。
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これには後日譚があります。
これは後の時代に作られたお話ですが、明暦の大火の火元は諸説あります。
本妙寺の隣にあった老中阿部忠秋邸からの失火説、島原の乱の時代の老中松平信綱が、都市整備のために故意に放火させたという説など、いろいろな説があるようです。
だれかが罪を背負わなければ収拾が付かないということから、本妙寺が火元であるということで決着が付けられたともいいます。
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