八兵衛のセカンドライフ

46歳で脳幹(橋)出血、現在72歳の車イス男性。ブログはFact is factで(事実だものしょーがねぇべ)

音楽のおもちゃ箱(2)

2011年05月10日 15時22分19秒 | 音楽のおもちゃ箱
レットイットビーは、ここ
個人教授、ある愛の詩、風のささやき、太陽がいっぱい、太陽はひとりぼっち、ガラスの部屋、ひまわり、雨の訪問者、白い恋人たち、男と女、ロシアより愛をこめて、さらばベルリンの灯、夜霧のしのび逢い、シェルブールの雨傘、パリのめぐり逢い、パリは霧にぬれて、愛のために死すは、ここ
マスカレード、スカボロフェア、サウンドオブサイレンス、ミセスロビンソン、冬の散歩道、孤独の太陽、涙のくちづけ、ふたりの天使、ミッシェル、ガール、The Long And Winding Road、雨のささやき、悲しき天使、誓いのフーガ、夢見るシャンソン人形、あなたのとりこ、雨に消えた初恋、ヴィーナス、悲しき鉄道員、トレイン、霧の中の二人、しあわせの朝、朝日のあたる家、裏切り者のテーマ、輝く星座、マミーブルー、サマーワイン、西暦2525年は、ここ
クレイジーラブ、You are my destiny、Hey Paula、太陽はひとりぼっち、She's A Lady は、ここ
落葉の恋は、ここ
行かないでは、ここ
追憶は、ここ
南から来た用心棒、さすらいの口笛、夜がくるは、ここ
ひまわりは、ここ
ビバ・ラスベガス、監獄ロックは、ここ
雨の日と月曜日は、遥かなる影、愛のプレリュード、スーパースター、青春の輝き、この世の果てまで、Top Of The World、恋よさようならは、ここ
みじかくも美しく燃えは、ここ
ジェットストリーム、エアーウルフ、夏の日の恋、ブラジル、ティコティコ、ランバダーカオマ、碧空、リベルタンゴ、哀愁のヨーロッパ、黒い瞳、仮面舞踏会よりワルツ、いそしぎ、天使のセレナーデ、蒼いノクターン、恋はみずいろ、涙のトッカータ、エーゲ海の真珠、シバの女王、愛のために死す、哀愁のアダージョ、アランフェス協奏曲、夜霧のシルエットは、ここ
サバの女王、アドロ、ラ・イスラ・ボニータ、Papa Don't Preach、コパカバーナ、黒い瞳のナタリー、君の瞳に恋してる、ダンシング・クイーンは、ここ
反逆のテーマはここ
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音楽のおもちゃ箱(1)

2011年05月10日 15時19分59秒 | 音楽のおもちゃ箱
メリージェーン、初恋、さよならをするために、また君に恋してるは、ここ
東京、兄弟船、雪国、津軽平野、恋人よ、天城越えは、ここ
時の流れに身をまかせ、愛人、別れの予感、つぐない、空港は、ここ
人形の家、砂漠のような東京で、雨に濡れた慕情、何も云わないで、白い蝶のサンバ、京都の恋、愛は傷つきやすく、海の底でうたう唄、恋の季節、夜が明けて、いたずらっぽい目、恋のハレルヤ、雲にのりたい、北国の青い空、恋泥棒、北国行きで、手紙、夜明けのスキャット、ギターのように愛されたいは、ここ
勝手にシンドバッド、チャコの海岸物語、いとしのエリー、夏をあきらめては、ここ
そしてめぐり逢い、恋の町札幌、津軽恋女、明日の詩、想いで迷子、恋唄、サチコ、みちのくひとり旅、おまえには、ここ
ブルー、かもめが飛んだ日、横須賀ストーリー、いい日旅立ち、秋桜、スローモーション、セカンドラブ、トワイライトは、ここ
あの日にかえりたい(小野リサ)、春よ来い、卒業写真(Hi-Fi set)は、ここ
恋のしずく、君恋し、恋のバカンス、青春時代、アマン、夜明けの停車場、黄昏のビギン、悲しい色やね、冬物語、別れの朝、いちご白書をもう一度、冬が来る前に、なのにあなたは京都に行くの、22才の別れ、雨の物語、色づく街、雨音はショパンの調べ、ウイスキーがお好きでしょは、ここ
恋唄綴り、遠くで汽笛を聞きながら、影法師、都会の天使たち、愛しき日々は、ここ
悲しき願いは、ここ
みだれ髪、りんご追分、越後獅子の唄、悲しき口笛、酒場にて、津軽海峡冬景色、能登半島、越冬つばめ、北の宿から、舟唄、雨の慕情、人生いろいろは、ここ
かもめが飛んだ日、フォグランプ、ミッドナイト、季節の翳りに、予告篇、たかが恋、朝のメニュー、たとえばたとえば、別れてそして、迷い道は、ここ
タッチ、天城越え、フレンズ、ロンリーチャップリン、北の旅人、酒よ、なごり雪、ふたりの大阪、居酒屋、アイラブユー、北空港は、ここ
雨だれ、木綿のハンカチーフ、赤いハイヒール、ドール、しあわせ未満、九月の雨、最後の一葉は、ここ
絵になる夜の物語、悲しみの訪問者、すずめの涙、大阪暮色、夢おんな、未来女、愛人、つぐない、恋やつれ夢やつれ、東京ブルース、真夜中のシャワー、終電車、うぐいすは、ここ
酔歌、雪国、海峡、酒よ、誰か故郷を思わざる、伊豆の佐太郎、侍ニッポン、踊り子は、ここ
パイプライン、10番街の殺人、ダイヤモンドヘッド、ウォークドンタラン、花の首飾り、バラ色の雲、君に会いたい、夕陽が泣いている、北国の二人、ブルー・シャトーは、ここ
三百六十五夜、この世の花、エリカの花散るとき、湖愁、花はおそかった、女学生、青い山脈、いつでも夢を、ああ上野駅、泣いてたまるかは、ここ
君だけを、十七才のこの胸に、恋人をさがそう、恋人ならば、涙になりたい、チャペルに続く白い道、星娘、ねがい、二人の銀座、夜空の星、涙の太陽は、ここ
セーラー服と機関銃、シルエット・ロマンス、たそがれマイ・ラブ、ロマンス、聖母たちのララバイ、燃える秋、中央フリーウェイ、冷たい雨、雨のステイション、Mrサマータイム、フィーリングは、ここ
三人家族、さよならの夏、タイガー&ドラゴン、Blue Moonは、ここ
ランナー、栄光の架橋は、ここ
おもいで、愛のこころ、池上線、まちぶせ、淋しいから、面影、promised you、Departure、ほんの短い夏は、ここ
草原のマルコ(母をたずねて三千里)、花のささやき(小公女セーラ)、君を乗せて(天空の城ラピュタ)、宇宙戦艦ヤマト、タッチ、さよならの夏(コクリコ坂から)、Let it go~ありのままで~(アナと雪の女王) は、ここ
心がさむい、本牧メルヘン、情熱は、ここ
風雪ながれ旅は、無法松の一生(度胸千両入り)は、ここ
木蓮の涙は、ここ
襟裳岬(島倉千代子、吉田拓郎)は、ここ
もえあがれ雪たちは、ここ
音楽ではないけど飛行機の動画は、ここ
男の友情・背番号3、七夕おどり、ミス仙台は、ここ
思えば遠くに来たもんだは、ここ
坂本冬美・藤あや子~ザ・ピーナッツ~(恋のバカンス、恋のフーガ、モスラの歌、情熱の花、ふりむかないで、悲しき16歳、ウナ・セラ・ディ東京)は、ここ
坂本冬美 & 藤あや子 in 石垣島(恋のフーガ、ペッパー警部、逢いたくて逢いたくて、恋の奴隷、時の流れに身をまかせ)は、ここ
青葉城恋唄は、ここ
私だけの十字架は、ココ
女のブルース、京都から博多まで、あなたのブルース、雨がやんだら、別れの朝、舟歌、みちのく一人旅は、ココ
宵待草、かえり船は、ココ
藤圭子の別れの朝、舟歌、あなたのブルースは、ココ
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妻・お銀との出会い

2011年05月10日 15時04分00秒 | 家族
1972年(昭47)12月2日、この時期仙台では珍しく凍てつくように寒い日だった。
翌年からの学部進級を前にして、人生の出会いを求めるべく、
習ったばかりの社交ダンス講習をたのみにし、たった一着しかないスーツを着て、
マージャン友達と勇むようにしてダンスパーティに出かけたのだった。

合コン花盛りの今とは違って、当時の出会いは合同ハイキング、ダンスパーティが精々の時代だった。
だいたいどのパーティでも、ジルバ=70%、ルンバ=20%、チーク=10%で、
おひらきの定番はメリージェーン、もちろんチークタイムだった。

その日のパーティはラス前まではハズレ、残りは最終の1曲だけとなった。
 『ヤバイ! もう前奏が始まってしまった。』
ふと薄明かりの壁際のほうを見ると
白いワンピースの女性がほのかに見え、私のほうをニッコリ微笑んでいるように見えた。
その日が、お銀の20歳の誕生日だった。
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歩行練習の軌跡

2011年05月10日 14時46分30秒 | リハビリ・ADL
苦節13年、足踏みがようやく連続10分できるレベルにきたので、この機会に自立歩行に向けたリハビリの軌跡を整理しておく。

   1998年1月 脳幹(橋)出血 ~ 同年11月までリハ入院
   1999年1月 会社復帰→B社名取センタ
              机上の両手で身体を支える足踏み (万歩計で2000歩/日を日課、会社食堂等)
   2003年10月       C社卸町ビル
              机上の両手で身体を支える足踏み (万歩計で1000歩/日を日課、会社デスク)
   2006年3月 退職
              手摺を両手で握り、身体を支えての足踏み開始 
              → 20秒も足踏みするとマヒ足が硬直 → 硬直ーストレッチー足踏みの繰り返し
   2008年春  足踏みが連続3分可能
   2008年7月  お銀の他界
   2009年秋  足踏みが連続4分可能
   2010年秋  足踏みが連続6分可能
   2011年春  足踏みが連続10分可能

将来のことは神のみぞ・・だろうけど、短い距離ならあと数年もすれば、杖で自立歩行できそうな気がする。

 ps:改善回復は当初から連続しているけれど、初めの頃の数年間は今ほど顕著ではなかった。
   私の例は、『リハビリを続けていると、年月を経るほど回復程度も加速度的に大きくなって行く』、と言えるのでは。
   年月ごと回復の上昇カーブは個人差があると思うけど、『・・・』のことは一般的に言えると思うな。
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東北大学病院への転院

2011年05月10日 14時28分24秒 | 脳幹出血
初期リハビリで大きく改善したというけれど、
今後のことを考えると仙台に転院し長期戦で取り組むことが最善だった。

お銀は会社・産業医先生がたと話し合い、転院候補を東北大病院に絞って臨んだ。
東北大病院にはお銀が訪問して申込み、関東逓信病院側からもプッシュして頂いた。
幸運にも比較的早期に東北大病院から転院許可を貰ったので、3月14日に転院日程が決まった。

問題は、仙台までの私の搬送手段だった。
仮に民間救急車チャータしたとしても、点滴治療中の患者の搬送には、
法律の規定により医師か正看護婦の付添いが必要条件だった。
関東逓信病院の看護婦の仙台までの出張付添いも検討されたが、
最終的には産業医先生がご一緒して戴くことになり解決を得た。

産業医先生には、「脳幹出血では知能知識系脳は無傷のケースが多い。
八兵衛さんも大丈夫」と、メンタル面でもケアをして頂いた。
また、その後の会社復帰に際しても多大なるご尽力を頂いた。

倒れて2ヶ月後の3月14日、民間救急車により東北大学病院へ転院した。
午前9時に五反田の病院を出発し、午後2時過ぎに東北大病院に到着した。
産業医先生の付添い見守りにより、移動中にも点滴治療が続けられた。

入院先はリハビリテーション科、3月中旬とはいえ仙台はまだまだ寒かった。
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妻への八つ当たり

2011年05月10日 14時11分52秒 | 脳幹出血
両手両足は動かない、見えない、聞えない、喋れるけど通じない、飲み食いはダメ、
排尿排泄プライバシもへったくれもあったものじゃなし、なんじゃこりゃ~の世界だった。

あまりに変わり果てた自分に驚愕し、とにかくお銀をメチャクチャに罵倒し続けた。
驚愕→憤激→罵倒→失望、この繰り返しだった、まるでツキものに取り付かれたように罵倒した。
「お前のせいでこうなった」
「変わり果てたオレを眺めて嬉しいか?」
「お前は悪魔の手先、いや悪魔そのものだ」
・・・・・・・・・
ありとあらゆる悪態を、モゴモゴと不明瞭な言葉で浴びせ続けた。

お銀はうな垂れたように下を向き、口応えもせず悲しそうな顔をしていた。
罵倒に疲れ果て私の怒りが収まると、お銀がひたすら謝った。
単身赴任させざるを得なかったことで、お銀は自分自身を責めていた。

「八兵衛さんのバチ当り! 
そんな事言っていると、奥さんに離婚され捨てられるわよ。
世の中にそんな例は、掃いて捨てるほどゴマンとあるんだから」
来る看護婦さん来る看護婦さんにこっぴどく叱られた。

10日くらいは続いただろうか、
鼻から胃に通している流動食チューブを、寝ているうちに自分で抜くまでに手が動き始めた。
全く動かなかった手が動き始めたから大変喜ばしいのだが、
無意識とはいえ何度もチューブを抜くものだから、そのうち包帯で拘束されるハメになった。
私の口汚い罵倒には黙って耐えられたお銀だったが、私の拘束姿を見るのが辛そうだった。

妻への八つ当たりがやっと収まる兆しを見せ、主治医は私のリハビリを始める好機とした。
(2月中~下、倒れて1ヶ月)
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そして新天地=宮城病院へと

2011年05月10日 14時09分08秒 | 脳幹出血
私が意欲を持ってリハビリする限り、宮城病院はどこまでも訓練の機会を与えてくれて、まさに新天地となった。

PT/OT では早々に全身検査をし、さらに松葉杖での歩行を診て、
  ・ 装具は一切不要。
  ・ 会社復帰も考えて、杖は見た目が軽い一本杖で。
また、11月末の退院までの日課は下記で通した。
  ・ 9:00~10:00 平行棒の中の歩行(PT先生の遠隔監督のもとで自主訓練)
  ・ 11:00~12:00 OT(作業療法、パソコン操作+メール等)
  ・ 15:00~16:00 平行棒の中の歩行(PT先生の遠隔監督のもとで自主訓練)
  ・ 16:00~17:00 PT(ストレッチ、バランス運動、一本杖歩行訓練:周回60m×2)

11月末の退院前には、
マヒ側を付添いに強く支えて貰えば、1本杖で数10mは歩行できるまでになった。
マヒ側が重過ぎて1歩毎に上体が後に仰け反り、曲芸みたいな危なっかしい歩行だった。
しかし、将来もたとえ単独での杖歩行が叶わぬとしても、
今後も息長いリハビリを続けて行く事で、付添者の軽い支えで杖歩行が可能になりそう、
との確信をしっかり掴むことができ、宮城病院に感謝で一杯の気持ちだった。

9月上旬:身体障害者手帳=1種1級の認定通知。

10月上旬:会社復帰の上申書を作成し提出。宮城病院の診断書を上申書に添付した。
       主治医の図らいで、診断書の就業意見は「知的デスクワークに限り可」とした。
10月中旬:会社復帰の内定通知。(復帰日=平11年1月4日、東北支社兼務)

10月21日:お銀の父が心不全(狭心症)で死去、享年81歳。
      1週間前内定した会社復帰を大変喜び、そして安堵し、
      前日20日までは元気だったが、21日朝には安らかな眠り顔を浮かべ逝ってしまったとの事。
      私が倒れて大変心配かけてしまったけど、土壇場に親孝行できたのがせめてもの救いだった。

11月下旬:宮城病院を退院

平成11年1月4日:会社復帰(3月までは半日勤務、4月からは終日勤務)

  娘達は社会人に自立したし、住宅ローンは完済したし・・・そろそろ軟着陸しても・・

平成18年3月末:退社(30年勤続)
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最初の転院、そして意識回復

2011年05月10日 14時01分54秒 | 脳幹出血
意識はまだ回復していなかったが気管切開や急性期の危機を脱し、帝京大病院ICUからの転院にOKが出た。
会社の関係各位、特に産業医先生のご尽力の賜物で、幸運にも関東逓信病院(NTT東日本関東病院)に転院でき、
急性期リハビリに備えることができた。(1月20日、倒れてから1週間後)

意識は回復していなかったが、ヘルプの電話直後に聞えたピーポー音と、「助かったかも知れない」の安堵感のお陰だろうか。
首都高速を救急車でピーポーと運ばれた記憶が、断片的にだがうっすらとある。
不思議だけどこのあとは、2月3日までの記憶が一切途切れている。

看護婦「名前は、生年月日は、奥さんの名は、会社は、仕事は」
八兵衛「名前は八兵衛、昭和27年2月20日生まれ、女房はお銀、会社はN社、仕事は新規事業開発・・」
まぶたが開き意識の回復の兆しらしきものが見られてくると、主治医や看護婦さん達に次々と質問される。
的確に答えられるかどうかで、しっかりと覚醒し意識回復しているか否かが診断される。

意識回復と診断されたのは2月3日。
テレビドラマにあるようなマブタを閉じた状態から、目をパチリと見開くアレではない。
強いて言えば焦点が定まらない夢遊病者のような目が、焦点が定まりきりっとした表情の目に戻った状態。
こっちのほうが近いと思う。

しかし意識回復は告げられたものの、自分の手足感覚は全く無いし身体のどこもピクとも動かない。
意識障害と4肢体マヒが橋出血後遺症の特徴と、あとで知った。
指先と足先が氷水に突っ込んだように無性に冷たく感じ、手袋厚い靴下を履かせて貰った。
それでも氷の海に沈められたような冷たさには、全く変わりなかった。
(倒れてから20日後)

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脳幹出血した当日

2011年05月10日 13時51分20秒 | 脳幹出血
「ピーン、シューッ」
後頭部で細いガラス管が破れて、ガスが漏れるような音が聞えた。
その瞬間に立っていられなくなり、その場に倒れ込んでしまった。
平成10年1月14日の朝。
カーテンの隙間から雪が数cm積もっているのが見え、その日は大雪になった。

10秒20秒も経たないうちに、みるみる身体が動かなくなってきた。
まず右手右足が、全く動かなくなった。
生まれて初めての経験だったが、ひょっとしたらこれが脳卒中?
寮の隣室に助けを求めようにも、低くア~ウ~音しか発声できない。
え~? どうしよう。
明日は成人式の祝日だし、このまま死んで行くのかなぁと頭をよぎった。

倒れて30秒もたっただろうか。
倒れた目の前に、さっき会社へ年休連絡した電話器のコードが見えた。
まだ微かに動いた左手で、必死にコードを手繰り寄せて、
さっき連絡したばかりの会社へなんとかもう1度電話できた。
もう極々小さくしかア~ウ~音を発声できなかったが、
直前の電話で年休取得したばかりだったので、私の異変に直ぐ気が付き救急手配してくれたのだった。

倒れてから4,5分もたっただろうか、救急車のピーポーが聞えて、
駆けつけた救急隊員と寮母さんの気配がした。
しかしもう両手両足はピクとも動かず、古井戸に落ちたように視野が小さく狭くなり、
大きな声は微かに遠くに聞えるけど、ア~ウ~音も何も発声できなくなっていた。

単身赴任寮が板橋だったから帝京大学病院に搬送されたと思った。
ICUへ搬送される時、両側わきの下を氷袋で冷やされた事までは覚えている。
あとは意識が途切れてしまって、記憶がない。

八兵衛=45歳11ヶ月、単身赴任7年目のこと、病名=脳幹(橋)出血

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脳幹出血前夜の深酒

2011年05月10日 13時40分57秒 | 脳幹出血
関東逓信病院での人間ドック(40歳)の結果を無視したあげく、
6年後に脳幹(橋)出血に倒れて同病院のお世話になるとはつくづくの皮肉。
高血圧が縁の下になったのは確かだが、前夜の深酒と身体の急な冷え、この2つが引き金だった。

前夜、珍しく深酒をした。
3,4時間で焼酎いいちこ900mlを2人で4本だったから、焼酎1人1升づつを呑んだ勘定だ。。
夜10時過ぎに別れて、山手線シートに座ったのが敗因、不覚にも車内で眠り込んでしまった。
駅員に揺り起こされたのが大崎駅、もう終電が終わり深夜1時になっていた。(3周?)

山手通りを恵比寿、池袋、板橋区役所と通った記憶があるから、多分タクシーで帰ったのだろう。
相当酔っ払っていても寮の自室に辿り着くのだから、人間の帰巣本能もなかなかと思った。(注)

翌朝9時頃、カーテンのスキ間からの日差しと、二日酔いとで目が覚めた。
『明日は成人式で祝日だし、午後からでもいいから今日は何としても会社に出たい。
一応、2時間年休を電話連絡しておくとして、出社は午後かも・・・と匂わしておこう』

二日酔いでシビレた頭ながらずるい計算もしつつ、
冬の冷え切った部屋のなかを会社へ電話をとパンツ姿でフトンを抜け出したが、
再び布団にもぐり込むことはなかった。
このあと2時間年休の電話を会社にして、またフトンにもぐり込もうとした矢先に、
例の『ピーン、シューッ』と続いた。

注)倒れた場所が自室、即座のヘルプコール、この2つが助かったポイント。
  もし通勤途中の電車内だったら、救急手配まで20、30分はロスするから、多分死んでいただろうね。(by関東逓信病院)
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