八兵衛のセカンドライフ

46歳で脳幹(橋)出血、現在72歳の車イス男性。ブログはFact is factで(事実だものしょーがねぇべ)

大震災後のサバイバル

2011年05月12日 06時05分08秒 | 東日本大震災・地震
◇昨日も真冬並みに寒く、ここ名取でも死者を悼むように雪が降った。
  今朝も、庭がうっすら雪化粧している。
  テレビ画面の被災地も雪で覆われて、瓦礫が一時的に隠されるので悲惨さが小さく見えるかもしれないが、
  避難所で厳しい寒さに震えながら、眠れぬ夜を過ごした多くの被災者を思うと胸が痛い。
  震災と津波の悲惨な映像を、これでもかとばかりに繰り返し流すテレビはもう見たくない。
  今日も、もう地元TBCラジオ放送に切替えた。

◇震災後のリハビリ
  ・第2日(土):全面的に休み(気力おきず)
  ・第3、4日 :足踏みを20分程度したけど、無暖房なのでマヒ側の強張りが相当強かった。
           また、手摺を握る手がかなり冷たかった。
  ・第5日(火):停電中で真冬並みに寒かったので、全面的に休み(毛布+布団にくるまっていた)
  ・第6、7日 :体幹ツイスト5分、スロー腹筋15秒×4、背筋2分、股関節1分×2、
           足踏み6分×3のフルセットで1回やってみたが、結構きつかった。
  ・今日    :午前中は3インターバルとも連続で足踏みができたので、
           知らない間にかなり進歩したと思った。午後はどうだろうか?

◇今晩は娘が夜勤。
  日中も夜間も余震は時々あるけど、M9地震を経験して腹が座ったのか、
  もう矢でも鉄砲でも持って来いの心境で、夜ひとりの不安等は全然ない。
  サバイバル生活中とはいえ、秘かにスイーツを期待しても罰はあたるまい。
   →熱いフレーバーティにストロベリーチョコが3つも、、、、くくくっ、ありがとう!

◇死者・行方不明者数が2万人を超える大震災になりそうだけど、
  こうして無事に元気でいられるのも、お銀さんはじめマイホトケ様のご加護のおかげと思う。
  あらためて感謝と御礼の気持ちを込めて、かげろうのお銀さんをおもちゃ箱に復活することにする。

◇その後、時間も過ぎて、、、今日(5月12日)に至る。
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東日本大地震の発生

2011年05月12日 05時56分50秒 | 東日本大震災・地震
◇3月11日午後2時46分、あの大地震が発生した。

◇無事です、元気です!

  電気は昨日(3月15日)復旧、光フレッツは今日(3月16日)午後復旧したので、とりあえず。
  ガス、水道、家は、奇跡的に無事でした。
  家族、親戚、友人達も、みんな無事でした。
  それもこれも、お銀さん達ホトケ様のご加護と思っています。

  皆様からたくさんの安否確認&激励メールを頂戴しました。
  どうもありがとうございました。
  まことに勝手ながら、本日記に代えて返信は省略させて頂きます。

◇ラジオは絶対必要だね、音のでるものがないと不安で不安で。
  それからLED懐中電灯も絶対必要、人間暗くなると淋しくなって気が弱くなりがちだし。
  白色だったけどLED懐中電灯は低消費電力だし、今までのより2倍明るいし。
  浴槽への水の貯め置きも、停電時の水洗トイレに絶対必要。

◇食糧事情が悪いのは仕方なく、それでも娘はやりくりして日に3度の食事を欠かさず用意してくれている。
  食パン1枚+野菜ジュースだったり、小おにぎり1個だったりしているけど、、、、案外スリムになるかも。
  
  サバイバル生活中は、日記は日中に書くことになると思います。
   八兵衛流サバイバル終わりの定義=GSでガソリンが買えて、コンビニで弁当類を買えるようになる。


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昼食会

2011年05月12日 05時49分10秒 | サラリーマン時代
「感無量」繋がりになるけど、長女結婚式の1週間あと、しかも場所も同じ仙台国際ホテルで、
もと上司の杉本さん(数年後に社長に)が私とお銀のために、わざわざ昼食会を開いてくれた。

杉本さんを上司に私が仕えたのは平成7年、その後私の所属はいろいろ変わったけれど、
平成18年3月に退職するまでの10年間、私の心情としてはずーっと杉本さんの部下だったと思う。

平成10年1月に脳幹(橋)出血に倒れ、99%会社復帰が危ぶまれた時も、
『八兵衛くんの人件費くらいなんとかする。死んだつもりでリハビリを頑張ってみろ!』と激励してくれ、
そしてその後の復帰に際しても、多大なる御尽力を戴いた。
杉本さんからは、どんな山よりも高く、どんな海よりも深くて大きい御恩を戴いた。

仙台は東京から新幹線で2時間とはいえ、仙台で昼食会をするには丸1日のスケジュールになる。
娘の結婚した記念の場所で、杉本さんから退職をねぎらって戴き、まさに感無量の昼食会だった。

 ps:杉本さんの部下でいられて、本当に幸せだった。
   陰ながら、末長いご健勝と会社のご発展を祈る。
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温度感覚が蘇り始めた

2011年05月12日 05時34分22秒 | 脳幹出血
倒れてから3年目になっていたが、この年、実に嬉しいことがあった。

1つ目は平成12年6月、会社でのこと。
出張で来仙していた三原社長が、私を激励し別れる際に両手を包み込むように握手をしてくれた。
握手をした瞬間に、三原さんはびっくりして大声で私に言った。
「あんなに冷たかった八つぁんの手が、暖かくなってきたじゃないか!」

三原さんのお母さんはかつて脳梗塞を患っていたことがあり、
お母さんのマヒ手が氷のように冷たかった、その記憶が強くあったとの事。
三原さんは私が倒れた時に氷川神社に安全祈願してくれていたり、
半年ごとに激励に来てくれてその都度握手してくれていたから、それで直ぐに分かったというのだ。
自分でもうすうす感じてはいたが、
三原さんがいち早く気がつき喜んで教えてくれたので嬉しさもひとしおだった。

2つ目は平成12年10月、自宅で入浴中のこと。

両半身とも温度感覚が未だ無かったので、湯船に浸っていてもお湯の温かさは一向に感じなかった。
非常にぬるいぬるま湯に浸っている感じでしかなかった。

「これはお湯だ、温かさは感じないけど、ほら湯気が出ている。」
仕方ないから目でお風呂のお湯を感じ取り、
湯船に浸っている自分を目で確認をして、そして自己満足するしかない。
そんなお風呂だった。

いつものように身体をシャンプーし終わって、湯船に浸っている時だった。
マヒ側の右半身に感じていたぬるさが、急に氷水のように冷たく感じた。

次の瞬間、マヒの軽いほうの左半身が、「もあぁ~」っと急に温かくなった。
「おぉお~い、お銀、お風呂の暖かさが分かったぞ~っ!」
思わず大声で歓声を上げてしまった。
お銀も、娘達も、何事が起きたとばかりに素っ飛んできた。

歩くなど運動系の改善ではないが、6ヶ月以降の慢性期に入っているからといって、
脳神経の改善は決してストップしている訳ではない。
この年の2つの出来事から、
脳細胞は迂回路ネットワークの再構築を24時間絶え間なく営んでいることを実感し、非常に嬉しく思った。
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初めての外国出張

2011年05月12日 05時28分36秒 | サラリーマン時代
一人旅と言うと気楽な響きがあるが、カタコト英語をチョコっとしか話せない悲しき身であるも、
ロンドン、パリ、ベルン(スイス)、ダルムシュタット(西ドイツ、フランクフルトの近く)、4ヶ国への一人での外国出張だった。

昭和60年当時だからヨーロッパへはアンカレッジ経由が一般的で、時間もほぼ丸一日18,19時間もかかった。
行きの機内でワインを呑み酔って寝ようとしたけど、緊張で全然酔えないし、眠ることも出来なかった。
ボーッとした頭で北極海の白一色の氷を眺めていたら、
そのうち夜明け前のスキポールに着いたので、ブラックコーヒーを立て続け2杯飲み眠気を醒ました。

帰国はフランクフルト発のアンカレッジ経由だったが、
出張を終えた安堵感からかワイン2,3杯で眠りこけ、アンカレッジで起こされたほどだった。
だから北極海どころかKLMのスチュワーデスが美人だったか否か、全然記憶に残っていない。

出張収支が約40万円の大赤字だったので、のちにお銀から大目玉を喰らうことになった。
セカンドバッグ1つくらいじゃ、ゼッタイに誤魔化されない!、ってね。
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インターネット囲碁

2011年05月12日 05時08分11秒 | 囲碁
長年勤めた会社を去年の春にリタイアしたので、それを機会にインタネット囲碁を始めてみた。
サラリーマン時代は昼休み囲碁だったから、スジ悪、ザル、ケンカ碁好きの縁台囲碁の見本で、
キャリアが長いわりにはさっぱり上達しない、いわゆる八つぁんクマさんの囲碁だった。

脳出血したとはいえ囲碁を打つからには、相手には同情&手加減などをして欲しくもない。
それに第一、歩けないから行きたくとも町の碁会所には行けないし、
どうせなら名実ともバリアフリーで、対局者とは先入観無しで向え合える囲碁が好い。

そんな気持ちが強くあって、月2100円の有料だが日本棋院のネット囲碁会員に入った。
そこは希望していた通りの完全バリアフリー道場で、しかも幽玄深奥な世界だった。

以前は会社では初段格と大風呂敷を広げていたが、謙遜のつもりで2級と申告し加入した。
ところがあれよあれよと言う間に、1ヶ月後には8級に転落していた、あぁ、無残!
鼻っ柱は強いほうだけど、この時には全く自信を失いかけたね。

去年は年間1500局試合したから、朝から晩まで毎日4局は打っていた勘定になる。
実力は3か4級がいい線だが、数多く試合するためには、若干余裕を持つのも大事。
で、実際には2~8級の間を行ったり来たりしながら、常連さんと対局して楽しんでいる。
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2010年敬老の日に思う

2011年05月12日 04時57分44秒 | 家族
お銀と私の両親のうち、存命な人は私の父だけになった。

オヤジは大正11年4月生まれだから、今年は88歳の『米寿』になったわけだ。
酒好きで、小さい脳梗塞を2回している。
お世話頂いている義姉さんによると、週2回はデイサービスに行っているけど、身の回りも自分でできて元気だとか。
ありがたい、ありがたい、義姉さんには大変感謝しています。

オヤジはなによりも魚好きなので、それが長生きの秘訣になっているのかも。
オヤジほどではないけど、私も人一倍魚好きなので、長生きのDNAを持っていそうだ。
そのDNAは、しっかりと娘達にも伝わっているようだ、二人とも魚好きだし、感心するくらい骨だけを残してきれいに食べるもの。
オヤジも魚を食べた跡は猫がまたいで通るくらい、きれいに食べたものだ。

よしっ、私もオヤジにあやかって頑張るとしよう、オヤジ、さらに100歳を目指して頑張れ!

 追(2011年5月12日)

  郷里のオヤジは大正11年4月生まれだから、ひょっとして今年は米寿だったのかな?

  なに、今年89歳? いっけねぇ~
  親不幸ついでに、来年の『卒寿』(90歳)に併せてかな、来年は私も還暦だし。


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