世阿弥の言葉としてよく知られた「初心不可忘」は、『風姿花伝』の中の言葉として紹介されるのが普通だが、世阿弥芸能論中期の最重要著作『花鏡』の結論部分に再び登場し、そこには『花伝』には見られなかった議論が展開されている。『花伝』が亡父観阿弥の教えを伝えることを旨としていたのに対し、『花鏡』はそれ以降世阿弥が四十歳過ぎから六十二歳になるまでに自分で考えたことを記したものであるとその奥書に見える。
しかれば、当流に、万能一徳の一句あり。
初心不可忘
この句、三箇条の口伝あり。
是非初心不可忘
時々初心不可忘
老後初心不可忘
この三、よくよく口伝すべし。
「初心不可忘」という根本テーゼがこのように三つの下位テーゼに分節化されている。それらの中に世阿弥固有の芸能思想の展開を見ることができるだろう。今日から三回に分けて、そのそれぞれを見ていこう。
第一の「是非の初心を忘るべからず」は、自分の芸が上達したかどうか判断する基準となる初心を忘れるなということ。ここでの「初心」は、初心時代の未熟さのこと。それを忘れずにいることが、その後の芸の向上過程・程度を計測する一つの基準となり、自分の芸が退歩していないかどうか確認することができる。小西甚一は、「是非初心」に注して、「この「是非」は、是非する、すなわち批判するの意ではなかろうか。自分自身の芸位を批判的に観るとき、基準となるのが、この初心だからである」と記している(小西甚一編訳『世阿弥能楽論集』たちばな出版、二〇〇四年、二三五頁)。
この初心を忘れることは、気づかぬままに初歩の段階に頽落するという道理(「初心を忘るれば初心へ返る理」)をよくよく反省すべきであると世阿弥は注意を促す。
特に年若い役者たちに向かっては、現在の自分の芸位をよくよく自覚して、たとえすでに人からも認められ、いくらか達者な役者になっていたとしても、「自分の今の芸もひとつの初心にすぎない。さらに上の段階の芸を身につけるためには、現在のこの初心をけっして忘れまいと肝に銘じ、工夫をかさねなくてはならない」と戒める。田中裕校注の新潮日本古典集成版『世阿弥芸術論集』では、原文で用いられている「念籠」(ねんろう)について、「禅語の「拈弄」(古則や公案を自分の見識で思うままに解釈し批判すること)の俗用であろう」と『花鏡』冒頭で同語が用いられている箇所に注している(一一七頁)。
この第一下位テーゼ「是非初心不可忘」の項は、次のように結ばれている。
さるほどに、若き人は、今の初心を忘るべからず。