内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「なんじは祈るとき、己が部屋にいり」― ジャン=ルイ・クレティアン『内的空間』を読む(三)

2014-12-15 19:03:46 | 哲学

 昨日の記事で取り上げた「心の部屋」は、福音書に由来する表現だが、しかし、それは、間接的な仕方でのことである。この表現の起源は、「マタイによる福音書」の第六章第五、六節の或る解釈にあるのである。この箇所は、他の福音書に並行記事がない。その或る解釈が、聖書本文の文字通りの意味に、別の意味、つまり精神的な意味を与え、この意味がキリスト教徒たちにとってたちどころに権威を有つようになる。この箇所は、イエスのいわゆる「山上の垂訓」に見られ、弟子たちにいかに祈るべきかを説いているところであり、「主の祈り」に先立つ。

なんぢら祈るとき、偽善者の如くあらざれ。彼らは人に顕さんとて、会堂や大路の角に立ちて祈ることを好む。誠に汝らに告ぐ、かれらは既にその報を得たり。なんぢは祈るとき、己が部屋にいり、戸を閉ぢて隠れたるに在す汝の父に祈れ。さらば隠れたるに見給ふなんぢの父は報い給はん。

 ジャン=ルイ・クレティアンによれば、ここでの「なんぢら祈るとき」から「なんぢは祈るとき」への移行、つまり二人称複数から二人称単数への移行は、決定的な重要性を有っている。密やかに祈れという教説は、個々人それぞれに向けられている。その都度唯一の神に祈る唯独りの掛け替えのない人に向けられているのだ。
 ギリシア語原文では「汝の扉(τὴν θύραν σου)」となっている。二度繰り返される「隠れたる」は « krypton » で、フランス語で地下礼拝堂を意味する « crypte » の語源である。ここでの「部屋」とは、だから、唯一人のための地下礼拝堂のことなのである。
 この「隠れたる」在処は、見えざる神のことではない。私自身が隠れていること、私の行為が隠れていることを意味している。それは、他者たちにとって隠されているばかりでなく、自分自身に対してさえ隠されていることさえある。しかし、神にとっては、それは「隠れたる」ものではない。神は隠れたる者の裡で、すべてを見給う。
 隠れたるものさえ、その証人を必要とするのだ。その証人がいないと、心が揺らいでしまう。この隠されてはいない隠されたものが、私の心の内在性の次元であり、それはただ神にとってのみ、そのような次元でありうる。