内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

西洋哲学における〈心〉の表象史 ― ジャン=ルイ・クレティアン『内的空間』を読む(一)

2014-12-13 13:50:26 | 哲学

 いかに現代の哲学が、様々な立場の違いを超えて、その一般的な傾向として、魂・心・精神・意識等を人間の純粋な内部・内面としてそれら以外である外部と区別し両者を対立させるという、いわゆる二元論的構図に対して批判的であるとしても、私たちの日常の言語使用においては、例えば、自分の心を「自分のうち」とするような、心にその外部とは区別され得るある一定の広がりを認める表現は現に広く流通している。
 そのような心の「内的空間性」を認める日常言語における一般的傾向は、その傾向のうちに反映された心身二元論的構図を英米哲学系の論客たちが近代哲学の誤謬の産物として取り壊そうと躍起になっても、あるいは、脳科学の専門家たちが心の動きを脳内の物理化学的反応に還元しようとしても、一向に消滅しそうにない。
 このように心が「内的空間」として表象され続ける理由は、どこにあるのだろうか。他者にも共有可能な空間表象に頼らなければ心の内密な動きも言語によっては表現できないということにあるのであろうか。つまり、「純粋な内在性」の言語などというものはありえず、多かれ少なかれ他者と共有された〈外在性〉を媒介としてはじめて、〈内在性〉はそれとして表現されうるに過ぎないという消極的な理由からなのであろうか。
 このような問いに対して何らかの立場からする哲学的議論によって一挙に決着をつけようとするのではなく、心を「部屋」「家」「寺院」「城」などと表象してきた「内的空間」の表象史の変遷を西欧キリスト教世界におけるその起源から近代を経て二十世紀まで辿り直すことで、西洋哲学史を貫く根本問題の一つとして「内的空間」という問題を立て直すという、桁外れの博覧強記と犀利な哲学的分析力とを必要とする試みに取り組んでいるのが、パリ=ソルボンヌ大学教授ジャン=ルイ・クレティアン(Jean-Louis Chrétien)の『内的空間』(L’espace intérieur, Les Éditions de Minuit, collection « Paradoxe », 2014)である。
 著者のいつもの流儀で、見かけは瀟洒だが途方も無い問題提起力を有ったこの本を、明日から何回かに亙って紹介していく(ただし、日本への一時帰国を間近に控えているので、断続的な投稿になるかもしれない)。
 しかし、単に興味本位からこの本を紹介したいわけではなく、私自身の研究にも密接に関わる問題がその中に提起されているからこそこのブログの記事として取り上げるのであり、したがって、本の内容を忠実に紹介するというよりは、私自身の問題意識に引きつけた読み方を提示することになるだろう。