内的自己対話-川の畔のささめごと

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聖書における解釈の葛藤 ― ジャン=ルイ・クレティアン『内的空間』を読む(四)

2014-12-16 15:11:46 | 哲学

 昨日見たマタイによる福音書第六章第六節の「己が部屋にいり」の箇所は、人間の行為の表象としては、旧約聖書のイザヤ書第二十六章第二十節の反響と見なすことができるかもしれないが、問題は、〈自分の部屋に入る〉という行為の意味が旧約と新約とでまったく逆転させられていることである。
 旧約では、ヤハウェ自らが人々に対して「わが民よゆけ、なんぢの室にいり、汝のうしろの戸をとぢて、忿恚のすぎゆくまで、暫時かくるべし」と警告している。神の怒りが過ぎ去るまで、神の顔を避けて、自分たちの部屋に身を隠せと言っているわけである。ところがマタイでは、昨日見たように、それぞれ個々に自分の部屋に入るのは、そこで内密に神に出逢い、言葉を交わすためであった。
 このイエスの言葉は、「共に祈る」ことを禁じることで、あらゆる宗教的共同体の解体へと導かねない衝撃力を有っている。ところが、おなじマタイの第十八章第二十節では、「二三人わが名によりて集まる所には、我もその中に在るなり」と言明されている。文字通りに解釈するかぎり、両者の間には、「矛盾」が見られる。同じ福音書内のこの「矛盾」が、マタイ第六章第六節の「己が部屋にいり」を文字通りに解釈することはできないと教会教父たちに考えさせたのである。
 山上の垂訓での「それぞれ自分独りで自分の部屋に入って祈れ」という説教が新約聖書の他の箇所と「矛盾」してしまうのは福音書内だけのことではない。「テモテへの手紙一」第二章第八節の「何れの処にても潔き手をあげて祈らんことを」や「エペソ人への手紙」第六章第十八節の「常にさまざまの祈と願いとをなし」とも矛盾してしまう。そればかりでなく、これら二つの説諭は両者相俟って、「どこでも常に祈れ」という教説を形成する。
 この文字通りの読解が引き起こす解釈の葛藤という困難を前にして、その解消のために、教父たちは、「キリストが私たちにそこに入って祈れと説いたのは、私たちの「心」の部屋、つまり内的「部屋」である」という解釈を導入した。この解釈が「心の部屋」という内的空間表象を西洋精神史に誕生させ、以後、この表象が、古代・中世を通じて、キリスト教的心性と道徳意識を規定していく。

(追記 この記事は、今朝自宅で書き、ストラスブールからTGVでシャルル・ド・ゴール空港に移動してから、搭乗手続き開始を待ちながら、投稿した。)