内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

高貴なる感情としての〈王〉への臣従 ― トクヴィルとネルヴァルにおける「失われた時」(一)

2014-12-10 07:50:32 | 随想

 トクヴィルとネルヴァルは、十九世紀前半という同時代を生きたフランス人であるが、両者の間に生前何らか直接的な接点があったわけではないようである。それぞれの出自や生きた世界の違いからすれば、それも当然のことだと思われるが、まさにそうであるからこそ、両者の文章の中に見られる精神的親近性はどこから来るのかということが問われうるだろう。
 トクヴィルの父母両家系とも高貴な血筋を引いているが、特にトクヴィルの母方の曽祖父マルゼルブ(1721-1794)はトクヴィル家にとって崇敬の対象であった。ユダヤ人、プロテスタント教徒を弁護し、百科全書派を擁護し、民衆の側に立つ、アンシアン・レジームの苛烈な批判者でありながら、王家への忠誠を尽くし、フランス革命時にはルイ十六世を弁護し、自らもギロチンによって処刑されたマルゼルブに対して、トクヴィルは終生限りない尊敬の念を抱き続け、自分がその血筋を引くことを誇りとしていた。そして、この血筋は、トクヴィルの政治思想家としての卓越した分析力を養った知的源泉でもあった。
 晩年のある手紙の中で、トクヴィルは、父の居城でのある晩の親族の集まりで、母親がルイ十六世の幽閉の憂いをテーマとした歌を歌ったときのこと想い出しているのだが、その箇所は詩的な美しい文章になっている。

Je me rappelle aujourd’hui comme si j’y étais encore, un certain soir, dans un château qu’habitait alors mon père, et où une fête de famille avait réuni à nous un grand nombre de nos proches parents. Les domestiques avaient été écartés ; toute la famille était réunie autour du foyer. Ma mère, qui avait une voix douce et pénétrante, se mit à chanter un air fameux dans nos troubles civils et dont les paroles se rapportaient aux malheurs du roi Louis XVI et à sa mort. Quand elle s’arrêta, tout le monde pleurait, non sur tant de misères individuelles qu’on avait souffertes, pas même sur tant de parents qu’on avait perdus dans la guerre civile et sur l’échafaud, mais sur le sort de cet homme mort plus de quinze ans auparavant, et que la plupart de ceux qui versaient des larmes sur lui n’avaient jamais vu. Mais cet homme avait été le Roi (Lucien Jaume, Tocqueville, op. cit., p. 401-402).

 母親が歌い終わった時、その場に居合わせた親族皆が涙を流していた。しかし、それはそれぞれの個人的な辛い体験のゆえでも、革命時の内戦で失った、あるいは処刑台の露と消えた一族を想ってのことでもなく、十数年前にギロチンによって処刑されたある人の運命を想って泣いたのだ。しかも、その涙を流した者たちの多くは一度もその人を見たことさえなかった。しかし、その人は〈王〉だったのである。
 ここに表現されているのは、「失われた時」への旧懐の情ではない。ある故人への追悼の念でもない。皆が涙を流したとき、〈至高なるもの〉の喪失とともにそれに臣従しつつ〈国〉のために尽くすという高貴なる生き方もまた不可能になってしまった現実世界にあって、まさに「今ここにはないもの」こそが自分たちを生かしてきたのだということが切実に実感されたのである。
 この失われた〈高貴なるもの〉へのノスタルジーは、その具体的表象は歴史的所与によって様々でありうるとしても、人間の感情としてきわめて基礎的なものだろうと私は考える。そして、それは、トクヴィルにおいて典型的に見られるように、知的に鋭利な現実世界の分析の情感的源泉でもありうる。
 他方、この〈高貴なるもの〉へのノスタルジーが〈美〉へのそれと融合するとき、その融合からこの上なく美しい人間的形象が文学作品として生み出されることがある。その一つの良き例をネルヴァルの『シルヴィ』の中の「アドリエンヌ」と題された節に見出すことができる。
 この作品が発表されたのは一八五三年のことだが、上に引用したトクヴィルの手紙の日付は一八五七年五月六日であり、社会的には大きく異なった立場にそれぞれあったとはいえ、同じ時代の空気の中で両テキストは書かれたわけである。しかし、言うまでもなく、そこに醸成されている精神的気圏の親近性は、単なる同時代性ということには還元し得ない。その親近性はより深い精神的次元に由来するものであろうと私は考える。
 「アドリエンヌ」はプレイヤード版で二頁ほどと短く、そこだけ切り離して読んでも、その類まれな美しさを湛えた文章を嘆賞することができるので、明日以降の記事では、原文全文をゆっくり読みながら、トクヴィルとネルヴァルの精神的親近性について考えていきたい。