もし昨日の記事で提示した推論が妥当であるとすれば、『古事記伝』における国粋主義的な言説と「物のあはれ」論に見られる〈現在〉における感性の共同体への志向とは、宣長において、矛盾しないどころか、表裏一体をなしている、とさえ言うことができるだろう。
しかし、山田が参照している百川敬仁『内なる宣長』(東京大学出版会、1987年)の次の一節(手元に原本がなく、山田の『三点確保』からの孫引きであること、乞御寛恕。山田書には百川書からの引用箇所の頁数が示されていない)を読めば、私たちがここで直面しているのは、「整合的な」宣長像という狭い意味での思想史な問題枠組みを遥かに超えた、現代日本において再び問い直されるべき倫理学的根本問題の一つであることがわかる。
「宣長の要求するところはきわめて厳格である。一方で秩序の規範を尊重しながら他方でそれに従いかねる心を歌うという引き裂かれた心情にあくまで踏みとどまること、それが『まごごろ』の本性に忠実な『物のあはれ』の倫理というわけだ。これに堪えるとき、おのずから言外に溢れる悲哀は疎外された大都市の大衆の根本気分にふれ、交響し増幅しあって、現実の諸条件を棚上げに一瞬の共同態を幻出させるのである」。(山田前掲書、149頁)
折りに触れ「物のあはれ」を感ずる心は、受苦の共同態を善悪正邪の「彼岸」に一挙に一瞬にして幻出させる。この「彼岸」とは、しかし、善悪正邪が言挙げ・言(事)分けされる以前の〈古〉として絶対化され、神聖化されている。そのことと現実の秩序の規範を遵守することとは少しも矛盾しない。この受苦の共同態の中で、「物のあはれ」の名の下に、私たちを拘束する社会的規範とそれに従おうとしない心情とが〈歌〉によって「止揚」されてしまうからだ。
「物のあはれ」が文学の自律的価値の問題という枠組みを超えて、共同体的倫理の原理と化すとき、私たちは、「美しい日本」の中の受苦の共同態という虚構の裡に幽閉され、そのことに気づくことさえできなくなってしまう。