今、ブリュッセル市内のホテルの一室でこの記事を書いています。
昨日のブリュッセル自由大学でのプログラムは、サイト上のタイトルでは講義・講演(cours-conférence)となっていて、実際はどんな形になるかその場に行くまでよくわからなかったのですが、実際の聴講者は十二三名で、むしろこじんまりとしたセミナーといった感じで、その分気楽に話すことができました。
プログラムは二時間の予定だったのですが、予めお願いしてあったビデオプロジェクターが本来禁止なのに借り出されいて、それが戻ってきてセッティングが完了するまでに少し時間がかかったため、実際は定刻から十分ほど遅れて始まりました。
その時々の講義者・講演者によってやりかたは少しずつ異なっているとのことでしたが、大体は、講義者が主に話し、終わりの方で若干の質疑応答という形になるようです。しかし、私としては、自分としてもまだ十分に練れていないところも話して、それについてのさまざまな意見を聞きたいという意図もあったので、講義内容は二時間分用意していったのですが、実際は約一時間十分ほどで切り上げ、残りの四十分ほどを質疑応答にしました。
講義の年間テーマは「見えるものと見えないものの間」となっているので、それに沿うかたちで私の発表内容も準備してきました。タイトルは « Où est le sujet ? Où est le cœur ? » (「主体はどこにいるのか? 心はどこにあるのか?」)とし、日本語がその基本構造において示している知覚世界の把握の仕方の特徴をいくつか簡単な例文を挙げて説明することからゆるゆると講義を始めました。そして、時枝の言語過程説の要点を略説してから、同説がいくつかの点においてフッサール現象学におけるノエシス・ノエマの相関性に触発されて展開されていることを押さえた上で、言語過程説に依拠しつつ日本語に示された世界把握の特徴についての議論をさらに展開していきました。そして、結論として、時枝理論の描き出す世界像は大森荘蔵の「天地有情の世界」像とある点で近接していることを示し(因みに、時枝の所説と大森のそれとの間に見られる近接性については、夙に小浜逸郎『日本の七大思想家』(幻冬舎新書、2012年)の中で指摘されています。この本は、そのタイトルはいかにも大仰すぎで鼻白むところがありますし、所説にも承服できないところが多々あるのですが、所々に創見も見られ、「刺激的な」内容ではあります)、両者をあわせて援用することで、日本の古代和歌の現代の注釈者たちによる解釈が知らぬまに陥っていることがある古代世界とは無縁な心身二元論的構図を解体したときにはじめて可能になる解釈を示すことで、タイトルとして示した二つの問い「主体はどこにいるのか」「心はどこにあるのか」に対する答えに代え、発表を締め括りました。
その後の質疑応答では、私のほうがいろいろと気づかされれる良い質問があれこれで出て、それに答える中で私自身がこれから考えていかなければならない問題もよりはっきりしてきて、とてもありがたい機会となりました。
講義後は、その講義のオーガナイザーの一人で私を講義者として招待してくれた友人研究者とその友人二人、友人の指導教授と大学近くのカフェ・レストランでベルギービールを片手に、そして軽く夕食を取りながら、十時頃まで大いに談論風発、とても楽しい時間を過ごすことができました。
今日は、その友人とその指導教授と昨日の講義の主催者の教授と昼の会食を大学近くのレストランでしてからストラスブールへの帰路につきます。ブリュッセル・ストラスブール間には直通のTGVが日に何本かあり、所要時間はおよそ三時間四十分ほどです。午後八時頃には自宅に帰り着けるでしょう。