今日の記事の中身は、場末の酒場のカウンターでこぼすような独り言です。
拙ブログの記事を毎日書いていて、「上がり」のない双六で飽きもせずにいつまでも一人遊びをしている子供みたいだなあと、時々、いや、しばしば、思います。あれこれ経巡っていても、結局一枚の紙の上に描かれた経路の中を行きつ戻りつしているだけのことで、いつまでたっても「上がり」に到達することはないし、その紙上経路の外に出ることもありません。
そのような果てしない堂々巡りに関して、それぞれの記事で言及されている偉大なる著作家たちにはもちろん何の罪もありません。こっちの小さな頭の中に渦巻いている他愛もない考えが勝手に広がったり、こんがらがったりしているだけの話なのです。とどのつまり、その枠の中であれこれの著作家に好き勝手に言及しているに過ぎないのです。
まあ、それでも、そのような読書遊戯に耽っているこちらとしてはそれを面白がっているわけだし、ときには自分なりの「発見」もあったりしてそれに興奮することもあるのだから、それで誰も傷つけることがないのならば、罪のない独り遊びだと言えるかもしれませんが。
最近の記事内容に即して言えば、本居宣長、ルソー、スタロバンスキー、プルーストと「駒」が進んだと思ったら、今日はスタロバンスキーの精神医学の分野での半世紀を超える仕事をまとめた L’encre de la mélancolie (Seuil, 2012)を覗いていて、ビンスワンガー、アビ・ヴァールブルク、カンギレム、アンリ・マルディネへと空想の「駒」が進んで、あらためて自分の関心領域の限界に気づかされるというか、ああそうか、こんな「子供の領分」を地に足が着かないままに自分の思考は遊び回っているのか、と、そう望んだわけでもないのにいきなり鏡の前に立たされて自分の貧相な姿と対面させられたかのようにちょっと落ち込んでいると言ったらいいでしょうか。
言及された著作家たちの名誉のために繰り返しますと、彼らの偉大なる業績と私の精神の狭隘さとの間には何の関係もありません。その関係のなさがまた一層悲哀を募らせるのではありますが。