ビンスワンガーに限られたことではないが、独自の研究領野を切り開いたスケールの大きな思想家について、その思想の独自性をその思想家が受けた諸々の影響からだけ説明することはもちろんできない。しかし、その独自の思想の生成の諸契機を捉えるためには、諸々の影響関係それぞれについてその内容を理解し、それらをただ時系列に並べるだけではなく、相互の有機的関係を捉えなくてはならない。
昨日の記事で紹介したビンスワンガーのモノグラフィーの著者グロ(Gros)女史によれば、ビンスワンガーの思想にアプローチしようとするときに私たちは二つの相対立する誘惑に駆られる。一つは、ビンスワンガーの著作の中に見られる多種多様な著作家たちからの膨大な引用によって四方八方に引き回されるがままになること。もう一つは、それとはまったく逆に、ビンスワンガーの思想の発展段階を時系列に沿って三つに分け、その各段階にフロイト、フッサール、ハイデガーそれぞれからの影響と彼らそれぞれに対するビンスワンガーの批判とを対応させること。
どちらのアプローチによってもビンスワンガー思想の生成過程を辿り直しつつその核心に迫ることはできないとグロ女史は考える。特に、時系列に重きを置き過ぎると、もっとも肝要な点を取り逃がすことになる。むしろ、思想の諸源泉の「三角測量」(« triangulation »)こそが求められる。一つの思想は、「真なるはじまり」から自発自展するものでもなく、「大いなる闇」といったような何か神秘的なものがその底にあるわけでもないのだ。
グロ女史はただ「諸源泉の三角測量」(« une triangulation des sources », Caroline Gros, Ludwig Binswanger, op. cit., p.19)と一言記しているだけで、方法論としてそれを展開しているわけではない。もちろん、このモノグラフィー全体がこの方法の実践にほかならないと言うことはできる。それはそれとして、私にとってこれは思想史の方法論についてのとても示唆的な言葉だ。この言葉に込められているであろう方法論的含意を少しだけ私なりに発展的に言い換えてみれば、次のようになる。
ある思想の諸源泉を博物館のようにただ時系列に静的に並べるだけでもなく、それらを一処にただ概念的に重ね合わせる思考の遊戯に終わるのでもなく、それら源泉間における相互的な三角測量を実行することで、ある思想の生成と構造をその現場において捉え、その思想が生きて働いている領野に自ら参加すること。