内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

〈知る〉前の〈感じる〉ことへのアプローチ、それは言葉になる前の叫びに耳を傾けること

2017-04-01 21:36:29 | 哲学

 アンリ・マルディネのリズム論については、拙ブログの昨年8月1日の記事で一度言及している。そこでも書名を挙げている Regard Parole Espace の中に収録されている論文 « L’esthétique des rythmes » (1967) においてマルディネのリズム論が展開されている。
 同論文で言及・引用されている様々な文献の中で特に私の注意を引いたのが、アーウィン・ストラウス(Erwin Strauss)の Vom Sinn des Sinne (1935年。私が参照しているのは、その仏訳 Du sens des sens. Contribution à l’étude des fondements de la psychologie, Jérôme Millon, 2000 である)からの引用とアンリ・フォシヨン(Henri Focillon)の Vie des formes, PUF, 1996 (初版は 1943。邦訳は杉本秀太郎訳『[改訳]形の生命』、平凡社ライブラリー、2009年)からの引用である(後者は明日の記事で取り上げる)。
 ストラウスからの引用は、同論文に数ヶ所あるが、〈感じる〉ことにおける〈私-世界〉関係は、〈主-客〉関係には還元できないという論旨の段落の中で、« Le sentir est au connaître ce que le cri est au mot »(「感じることは知ることに対して、叫びの言葉に対する関係にある」)という一文が引かれている(H. Maldiney, Regard Parole Espace, op. cit., Cerf, 2012, p. 220)。
 この一文は、上掲のストラウスの著書の « De la différence entre le sentir et le connaître »(「感じることと知ることとの間の差異」)と題された章の冒頭に見出される。その冒頭の数行を引用する。

Le sentir est au connaître ce que le cri est au mot. Un cri atteint hic et nunc seulement celui qui l’entend, le mot par contre demeure le même, il peut atteindre n’importe qui partout où celui-ci se trouve et à n’importe quel moment. Dans le sentir, toute chose est là pour moi et ce n’est que telle qu’elle est là pour moi et qu’elle est là de quelque manière. Dans le connaître, nous atteignons l’en-soi des choses (Erwin Strauss, Du sens des sens, op. cit., p.371).

感じることは知ることに対して、叫びの言葉に対する関係にある。叫びは今ここでそれを聞くものにのみ達する。ところが、言葉は同じものとして留まり、誰であれその人が居るあらゆる場所でいつでもその人に達しうる。感じることにおいては、あらゆるものがそこに私にとって在り、そのような仕方でしか私にとって存在しないし、何らかの仕方でそこに在る。知ることにおいては、私たちは物事のそれ自体に達する。

 〈知る〉ことの手前で経験される〈感じる〉ことがどういうことかという問題へ、言葉として一定の規則に従ってどこでもいつでも同じ仕方で分節化される前のその都度の叫びが私たちにどのように触れてくるかという問題からアプローチしようとしているわけである。