二〇一四年一月一六日の記事で、漱石の名句としてよく知られた「菫ほどな小さき人に生まれたし」を取り上げた。その句が詠まれたのと同じ年、明治三十年、おそらくその句と相前後して詠まれた一連の句の中に次の一句がある。
人に死し鶴に生まれて冴え返る
二句とも同年二月に添削を求めて子規宛に送られた二十三句中に見られる。どちらの句にも子規は二つ丸を付けている。この句を詠んだ年の前年四月、漱石は熊本の第五高等学校に英語教師として松山中学から転任し、同六月に中根鏡子と結婚式を挙げている。翌年、つまり上掲の俳句が詠まれた明治三十年四月二十三日付子規宛書簡を読むと、「実は教師は近頃厭になりをり候へども」、「教師をやめて単に文学的の生活を送りたきなり」などと書いており、前年十月、つまり第五高等学校赴任後半年ほどで、鏡子の実家の中根家に転職の相談までしていることがわかる。
そんな精神状態の中で上掲の句は詠まれたわけだが、だからといって、句の価値が下がるわけではもちろんない。むしろ、そんな職業生活上の煩悶のうちでこのような凛と引き締まった句が詠まれえたことに漱石の俳句作者としての稟質を見るべきなのだろう。
「菫ほどな」の句にしてもそうだが、漱石には、花鳥虫などの小さきものへの轉生願望とでも呼べるような志向があるように思う。明治二十四年の習作に「聖人の生まれ代わりか桐の花」の一句があり、俳句ではないが、漱石自身が俳句的小説だと言っていた『草枕』の主人公には、「世間には拙を守ると云ふ人がある。此人が來世に生まれ變ると屹度木瓜になる。余も木瓜になりたい」と言わせている。