例えば、旅行中に美しい風景に出会い、それこそ言葉を失うほどに感動するということは誰にでも起こりうることだろう。そんなとき、今ではほとんどの人がその風景を写真に撮ろうとするだろう。なにも本格的な一眼レフでなくても、スマホさえあればいとも簡単にできることだ。
そのとき私たちはいったい何を撮ったのだろうか。言葉を失うほどの感動を私たちに引き起こした印象を「そのまま」記録したのではないことは確かだ。もちろん、後日、そのとき撮った写真を見ることで、そのときの感動を想い出す、さらにはまさにそのときのようにそれを生き直すということも場合によってはあるかもしれない。
昨日の記事で読んだプルーストの『失われた時を求めて』の一節は、しかし、それとはまったく別の経験を語っている。最初の美の印象とそのときの言葉の表現との間の乖離・不協和がなぜその美を再び見出すための表現への義務と欲求を引き起こしたのだろうか。これは誰にでも起こることではない。たとえそのような乖離・不協和を実感したとしても、それだけで最初の美の印象に忠実な「透明な」表現が後日自ずと与えられるわけではない。それは一定の環境と条件が与えられれば必ず起こる化学反応のようなものではない。
いかにしてそのような美の表現は可能になったのだろうか。そもそもなぜ美の知覚は可能だったのだろうか。プルーストの一節に最重要な哲学的教えが示されていると考えるスタロバンスキーは、印象(impression)から表現(expression)へと至る長く複雑なプロセスを形成している諸段階を「文学と世界の美しさ」の中で一歩一歩明らかにしていく。