音声言語は文字言語に先立って成立するというテーゼがすべての言語に普遍的に妥当するかどうかはここでは問わない。しかし、少なくとも日本語に関しては、音声言語の文字言語に対する先在性について異論の余地はない。しかも、その文字表記は、日本において内発的に独自に形成されたものではなく、日本語とはまったく文法構造・音韻体系を異にする外国語の表記体系を転用することではじめて可能になった。
それに、ルソーが『言語起源論』で言っているように(Essai sur l’origine des langues où il est parlé de la mélodie et de l’immitation musicale, 1781, Chapitre V « De l’Écriture »)、一般に、文字表記成立の根本的な理由の一つが、ある言語を他の言語から区別しかつそれら複数の言語を同時使用する人々の間のコミュニケーションの必要性にあるとするならば、文字表記は最初から「国際性」を有していることになる。ある民族に固有な純粋な〈原〉音声言語に立ち戻るためには、この「国際性」を排除しなくてはならない。
山田広昭は、昨日の記事で取り上げた『三点確保』の中で、村井紀『文字の抑圧―国学イデオロギーの成立』(青弓社、1989年)に依拠しながら、次のように述べている。
国学が「文字」への蔑視によって自己を確立し、「文字」への抵抗をとおしてその体系を形成した(村井紀)のだとすれば、この体系が「発見」することになるのは、皇国の正しく清らかなる音声言語であるほかはない。(130頁)
しかし、漢字による表記を「後にあてたる仮の物」として排除し、一切の文字表記に先立ってそれとして独立に存在していたであろう「汚れなき古言」、つまり「純粋な」原音声言語にたどり着くことは、文字表記を介しては不可能である。平仮名・片仮名に表記を限定したとしても、それらが漢字から得られたものであるかぎり、音声言語に対するその事後的媒介性を廃棄することはできない。
ここから導かれ得る帰結の一つは次の通りである。
〈原音〉に立ち戻ることは、表記を通じて過去に遡行することによってではなく、現在においてその音を発声することによってのみ可能である。一言で言えば、〈原音〉は〈現音〉としてのみ可能なのである。したがって、〈古〉の真意は、歌を声に出して〈詠む〉ことで直に今ここで感じることによってのみ達しうる。
しかし、歴史的〈原音〉を現在において〈現音〉として再現することが原理的に不可能であるとすれば、変遷を必然とする表記の歴史の彼方の〈古〉の絶対的自存性の主張は、実のところ、〈現在〉の絶対化の意匠の一つでしかない。歴史的変遷を超えた〈古〉の絶対化は、〈今・ここ〉の絶対化のヴァリエーションの一つとしてしかありえない。