内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

ロマン主義的言語観と民族主義のゆくえ

2017-04-16 20:00:34 | 哲学

 山田広昭『三点確保 ロマン主義とナショナリズム』(新曜社、2001年)は、その全体構想の雄大さに比して各部の議論には荒削りなところが少なからずあって必ずしも説得的ではないのだが、示唆に富んだ指摘に満ちたきわめて刺激的な論考集である。
 巻末の補論を除いて、全体は三部に分かれ、第二部が書名と同じく「三点確保」と題されており、本書の中心をなしている。今日その第二部のところどころを何度目かに読み返していて、フーコーの『言葉と物』における新文献学の意味についての見事な分析に言及している次の箇所で立ち止まってしばらく考えた。

フーコーの分析の優れている点は、言語の純粋に形式的な探求と見えるものと、言語に対する、より明白にロマン派的な態度、たとえば言語を民族精神そのものの現われ(ひとつの言語において語っているのは民族である)とみなすような態度を、ただたんに並列するのではなく、両者を内的に結びつけることのできる視点を提出しようとしていることにある。グリムら新文献学者の関心は、いわば語形論に集中しているといっていいが、そこでなされた語基(語根の実現形態)の厳密な研究は、語基が「もの」を指し示すのではなく、本来、行為を、過程を、要求や意志を表わすものであることを証明することで、それまでの名詞中心の言語観をくつがえし、言語がその本質において動詞的であることを示したのだった。言語はこうして知覚された事物の側にではなく、活動する主体の側にこそ根を持つことになる。言語が個人に属することがない以上、この主体は共同体的なものでしかありえない。じつをいえば、言語が思考に対して透明性を失い、固有の厚みを持つようになったこと、そのこと自体が言語をして伝統や慣習、奥深くしまわれた民族の精神の宿ることのできる場所たらしめたのだといってもよい。さらに付け加えるならば、言語の内的な歴史の存在は、われわれの歴史の、記憶の彼方にある根源的な出来事の再構成へと道を開くのである。(126頁)

 引用のちょうど真ん中あたりに「言語がその本質において動詞的であることを示した」とある。ここを、日本語に即して、特に宣長から時枝へと連なる言語観に即して、山田の文意から少し「ずらして」言い換えれば、言語は、その本質において、〈詞〉ではなく、〈辞〉によって機能している、ということになる。つまり、助詞と助動詞の働きにこそ日本語の本質があるということである。なぜ文脈を無視してこのような「ずらし」をあえてしたかというと、その方が次の文の後半に示されたテーゼ、言語は「主体の側にこそ根を持つ」とより整合的に順接するからである。
 実際、山田は、ロマン主義的言語観がもたらす帰結を上の引用に見られるように示した上で、次章で本居宣長を正面から取り上げる。そこにこそ私の主たる関心は向かっているのだが、そこでの山田の議論を追う前に、その準備として、この引用箇所から私自身にとって気になる問題をいくつか未整理のままだがここに書きつけておこう。
 このようなロマン主義的言語観が主張する「言語主体は共同的なものでしかありえない」という命題と、言語は個人に属することがないという言語一般の本性から引き出される同文命題とは、それぞれその妥当性が検討されるべき次元を異にしている。
 言語の思考に対する透明性の喪失という出来事は、西洋近代については語ることができるかもしれないが、そもそもそのような言語の透明性神話が西洋に固有な〈普遍性〉幻想でしかないとすれば、言語は「伝統や慣習、奥深くしまわれた民族の精神の宿ることのできる場所である」というロマン主義的言語観もまたその幻想の否定として生まれた西洋近代に固有の新しい幻想ということになる。
 ロマン主義的言語観によれば、「言語の内的な歴史の存在は、われわれの歴史の、記憶の彼方にある根源的な出来事の再構成へと道を開く」はずである。しかし、その「根源的な出来事の再構成」もまた言語によってしか可能でないとすれば、その道はとどのつまりある内閉した「民族精神」の中での「永遠の」堂々巡りでしかないのではないのか。