内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

芸術現象の本質について ― 中井正一のエッセー「うつす」を手掛かりとして

2017-04-27 16:10:37 | 講義の余白から

 今日の午後は修士一年の演習「近現代思想」の筆記試験であった。試験問題は三週間前にすでに学生たちに伝えてあり、今日の教室ではあらかじめ彼らが準備してきたノートや完全原稿を答案用紙に書き写すだけでいいようにした。というのも、試験時間が公式には一時間しかなく、何か少しでも読み応えのある小論文を書いてもらうには、試験当日に試験問題を知らせるのでは遅すぎるからだ。たった一時間で学生たちに何を書かせることができるというのか。私は彼らに一つの問題についてじっくり腰を据えて考えることを学んでほしいのだ。
 まださっと目を通しただけだが、期待通り、七人全員読み応えのある答案を書いてくれた。こちらもじっくり読ませてもらってから、採点しよう。
 序だが、一つの演習につき二つの成績をつけることになっていて、一つが筆記試験の点数、もう一つがレポートの点数に対応する。レポートの課題は一月以上前に出してあって、その締切りは今月末。すでに二人は提出済み。課題は、「現代社会における自然美・人工美・芸術的美の現実的相互関係あるいはその可能的相互関係について論ぜよ」というもの。現代社会一般について論じでもいいし、日本社会に特化してもいい。中国人留学生の女子は、中国社会と日本社会の比較研究でもいいかと聞いてきたから、もちろんそれでもいいと答えた。
 今日の試験問題については、4月6日の記事で言及したので繰り返さない。ただ、答案作成上、中井正一の芸術論的エッセー「うつす」を必ず何らかの仕方で参照すること、という条件をつけたので、そのエッセイの冒頭に引用されている印象深い古代インドの物語をここに引いておきたい。同エッセーの全文はネット上の青空文庫で読むことができる(同エッセーの初出は『光画』という写真雑誌の1932年7月号)。

 インドの王様が ― たいていの物語はこれで始まる ― 二人の画家に壁画を描かしめた。その壁は相面した二つの巌壁である。ようやく期日が迫るにあたって、一人の画家は彩色美しく極楽の壮厳を描きあげていった。しかるに他の一人の画家はいっこう筆を取らない。ただ巌壁を磨いて絵の下地をのみ造っている。ついにかくして、その日はきた。王様は大きな期待をもって巌壁を訪れた。一方の壁は七宝の樹林、八功の徳水、金銀、瑠璃、玻璃、をちりばめたる清浄の地が描かれている。まさに火宅の三界をのがれて、寂かに白露地に入るの思いがあった。王はうっとりとそれに見入るのであった。ようやくひるがえって他の一方の壁に王は視線を向ける。突如、索然たる空気が人々を覆った。そこには何も描かれてはいなかったのである。王の顔色にはあきらかに不快の徴しを現わした。「描かれてはいないではないか。」しかし、その問いよりも画家の答のほうが人々を驚かせた。
 「よくごらん下さりませ。」三度の問いに対して、三度の同じ答えが繰り返された。そして長い沈黙が巌壁を支配した。どこよりともなく、誰によってともなくうめき声が洩れはじめる。そして、それはついに賛歎となってすべての人々をも囚えた。王もまた三嘆之を久しうして去ったという。すなわち、鏡のごとく磨かれたる壁にはあい面して描かれたる寂光の土がうつしだされて、あまつさえそこに往来する王様の姿もが共にあい漾映して真の動ける十万億仏土を顕現したるがさまであったという。
 画家の機知もさることながら、このミトスの中にはかなり深い意味で、芸術現象の本質的なる構造をあらわにしていると思う。

 中井はこの後「うつす」という動詞の多義性を手掛かりに芸術現象の本質についてとても示唆的な考察を展開していく。エッセーの終わりの方では特に写真と映画の芸術としての可能性に言及している。現代日本ではあまり読まれている著作家とは言えない中井だが、もっと注意深く読み直されてもいいだろうと思う。