内的自己対話-川の畔のささめごと

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古代日本における「渡来人」と「日本人」との対立・抗争・共存・共生・融和という問題

2017-10-24 20:40:11 | 読游摘録

 昨日紹介した橋本雅之『風土記 日本人の感覚を読む』を読んでいて、第二章「「風土記」の時間」第四節「祖先の歴史 ―「祖」「初祖」「遠祖」「始祖」「上祖」」の中の「播磨国に残された渡来人の足跡」と題された箇所が私にはとりわけ興味深かった。
 『播磨国風土記』には、渡来系氏族に関わる記述が多く残されており、歴史的に見てこの地では古くから異文化との活発な交流があったことがそこからうかがえる。しかし、播磨国に定住した渡来系の人々と在地の人々が最初から仲良く共生できたわけではない。
 渡来系の神である天日槍命(あめのひぼこのみこと)に関する伝承に対立から融和へといたるプロセスを読み取ることができると橋本氏は言う。
 韓国から渡来し宿を請うた天日槍命の乱暴な行動を目の当たりにして、日本側の神格を代表する葦原志挙乎命(あしはらしこおのみこと)は先に土地を占有しようと粒丘までやってきた。両者の間には明らかに対立があった。この伝承は、「異文化や異邦人との出会いがまず対立という形で顕在化してくること」を如実に示している。
 しかし、そのような対立を乗り越えて、やがて両者の融和が実現したことも『播磨国風土記』は記している。
 例えば、応神天皇の時代に、百済からやってきた人々が、自分たちの習慣に従って、城を造って生活していたことが同風土記には記されているが、この記事の中に出てくる「城牟礼山(きむれやま)」は、渡来系の人々と在地の人々との共存・共生があったことの徴だと橋本氏は考える。「牟礼(ムレ)」は古代朝鮮語で山を意味するから、「ムレヤマ」は古代朝鮮語と日本語とが融合した語形だと考えることができることを橋本氏はその証拠とする。

「城牟礼山」という名は、ここに定住した渡来系の人々と在地の日本人とが、やがて共存し共生するようになった歴史の動かぬ証拠と言ってもいいだろう。そう考えるとこの山名は、百済の人々の子孫である夜代にとって、祖先が苦難を乗り越えて在地の人々と共存した歴史の記憶そのものであったと言えるのではないだろうか。日本人と渡来人とが融和したささやかな歴史がここにある。

 しかし、地名の日韓の複合的な語源的由来からだけで「異民族」と「日本人」との現実の融和を証明できるとは私には考えられない。そもそも、古代に関して「渡来人」対「日本人」という二元的対立図式を想定すること自体、自明のこととは言えないだろう。