内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

父方祖父没後五十年目の奇しき縁、そして祖父への短い手紙

2017-10-20 22:24:52 | 雑感

 やはり縁というものはあるのかもしれないと思わせる出来事が今日あった。
 私の父方の祖父は、美術評論家で、壮年期に日仏芸術交流に尽力した人だった。ただ、金銭の扱いにはどこか浮世離れしたところがあったようだ。そのことをめぐるエピソードについては、事実上秘書のような役回りを務めていた今は亡き母から何度か聞いたことがある。
 その話を聞きながら、「そこまで? すっげー」って呆れる一方、まずいなぁ、隔世遺伝しているかも、いや親父も金のことはだめだったから、隔世じゃなくて、これは端的に血筋ってやつか、と暗澹としつつも、他方では、あれっ、これって、ネガティブな自己正当化じゃん、と苦笑することが一再ならずあった。
 今年はその祖父の没後五十年目になる。ここ十数年のことだろうか、何人か祖父のことを研究対象としている研究者の方もいらっしゃるようだ。何年か前からウィキペディアには祖父の項目があり、短いものだが、内容は正確だ。
 ある年鑑には、次のように紹介されている。部分的に、そして一部略号化して引用する。

享年82才。明治18年1月15日世田谷区に生れ、府立一中、第一高等学校を経て明治43年7月東京大学文科大学哲学科を卒業。明治44年2月から大正3年2月まで読売新聞社勤務。同年より6年9月まで「趣味の友」社、児童教養研究部主宰。7年8月より13年8月にかけて三越勤務。同8月より黒田清輝の推挙で日仏芸術社をフランス人デルスニスと共同主宰した。日仏芸術社は昭和6年まで9回にわたってフランス美術展を日本各地と満洲国で開催して新旧のヨーロッパ美術の輸入をはかり、かたわら雑誌「日仏芸術」を発行して美術の啓蒙に貢献するところが大きかった。昭和4年5月から9月に同社主宰のパリ日本美術展には代表として渡欧した。一方大正14年4月から昭和24年3月まで文化学院、東京女子専門学校教授、24年4月から41年10月までT・K大学教授として美学・美術史学を担当した。主要著書、「奈良と平泉」(大正2年)「趣味叢書」(大正3年)「美学及び芸術学概論」(大正6年)「大日本美術史」(大正13年)「芸術概論」(昭和8年)「日本美術史概説」(昭和8年)「美学概論」(昭和9年)「日本美術史読本」(昭和9年)他。

 祖父が晩年十七年間勤務した大学で現在教授を務められている方が、来年三月、学生を連れてストラスブールを訪れ、弊学科の学生たちと交流をもちたいのとの希望をもっていらっしゃるとのこと、その仲介役を私的な関係で引き受けられた方から、今日、聞いた。
 話を聴きながら、まったく思いもよらないことだったので、ちょっと驚いた。私自身はその大学とは何の繋がりもない。祖父のことがなければ、ただ単に「どうぞいらしてください、歓迎しますよ」と型通りの挨拶をして済ませたところであろう。
 仲介役を買って出られた方も、上掲のような祖父の略歴を私が話すと、一驚され、「これは何かの縁かもしれませんね」と喜んでいらっしゃった。
 幼少の頃、祖父母とは同じ家に住んでいたが、祖父と何か実のある話をするには私があまりにも小さい頃に亡くなってしまったので、今となっては、ほとんど祖父の思い出は残っていない。
 ただ、亡くなった日のことは、かすかに覚えている。家族で朝食を取っていると、祖父の看病をしていた祖母が離れから手を叩いて、私の父に容態の急変を伝え、すぐに来るように大きな声で呼んだ。すぐに医者も呼び、その医者が来るまで、隣家の従兄が人工呼吸を試みた。だが、蘇生することはなかった。
 それから半世紀が経った。
 祖父よ、あなたの不肖の孫は、ここ十数年、フランスの大学で働いております。在仏も丸二十一年になりました。でも、あなたのように時代に先駆けるような仕事は非力な私にはとてもできません。それでも、あなたとは別の仕方で、たとえささやかではあっても、日本とフランスを繋ぐ仕事をしたいと、無い知恵絞って足掻いております。この度、思いもよらぬ縁で、あなたが教鞭をとられていた大学とのお付き合いが始まるかもしれません。このご縁を大切にするつもりです。どうぞお見守りください。