内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

師の説になづまざる事、そして、わが説にななずみそ ― 学問の正道しての「反逆」

2017-10-19 21:18:49 | 哲学

 本居宣長の『玉勝間』二の巻「桜の落葉」には、「師の説になづまざる事」「わがをしえ子にいましめおくやう」とそれぞれ題された二文が連続して収められている。そこには、宣長の学者としての誠心が決然と表現されている。
 たとえ師の説であろうが、ただそれを墨守するのではなく、その中に誤りがあれば、あるいはそれよりよい説が現れれば、それによって師の説を改めることこそが学問の正道なのだ、とういうのが前者の主旨である。

あまたの手を經るまにまに、さきざきの考ヘのうへを、なほよく考へきはむるからに、つぎつぎにくはしくなりもてゆくわざなれば、師の説なりとて、かならずなづみ守るべきにもあらず、よきあしきをいはず、ひたぶるにふるきをまもるは、學問の道には、いふかひなきわざ也、又おのが師などのわろきことをいひあらはすは、いともかしこくはあれど、それもいはざれば、世の學者その説にまどひて、長くよきをしるごなし、師の説なりとして、わろきをしりながら、いはずつゝみかくして、よさまにつくろひをらんは、たゞ師をのみたふとみて、道をば思はざる也、宣長は、道を尊み古ヘを思ひて、ひたぶるに道の明らかならん事を思ひ、古ヘの意のあきらかならんことをむねと思ふが故に、わたくしに師をたふとむことわりのかけむことをば、えしもかへり見ざることあるを、猶わろしと、そしらむ人はそしりてよ、そはせんかたなし、われは人にそしられじ、よき人にならむとて、道をまげ、古ヘの意をまげて、さてあるわざはえせずなん、これすなはちわが師の心なれば、かへりては師をたふとむにもあるべくや、そはいかにもあれ、

 この文章の中での「道」は、真実・真理・誠と置き換えてもよいだろう。このような学問的精神は、当然、己自身の学説に対しても適用されなくてはならない。それゆえ、子・弟子・後進に向かっては、よりよい考えが出てきたら、私の説に拘泥するな、私に遠慮するな、私の説を批判し、よりよい考えを広めるために前に進め、と宣長は鼓舞する。

吾にしたがひて物まなばむともがらも、わが後に、又よきかむかへのいできたらむには、かならずわが説にななづみそ、わがあしきゆゑをいひて、よき考へをひろめよ、すべておのが人ををしふるは、道を明らかにせむとなれば、かにもかくにも、道をあきらかにせむぞ、吾を用ふるには有ける、道を思はで、いたづらにわれをたふとまんは、わが心にあらざるぞかし、

 共時的な学問共同体の中だけではなく、どこまでも開かれた通時的共同体の中で、未来に向かって真理を探求することが学問の目的なのであって、師を崇め奉り、あるいは権威を恐れ、その目的をおろそかにすることは、師を裏切ることにほかならない。
 反逆のための反逆が目的なのではもちろんない。そんなことに何の意味があるか。しかし、真理探究のための「反逆」、これなしに学問は成り立たない。