内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

思想史の方法としての可塑的〈古層〉概念の可能性

2017-10-10 19:20:36 | 講義の余白から

 今日は、この九月から初めてのことだと思うが、終日家に籠もって講義の準備に専念することができた。もちろん、仕事上の若干のメールは来たが、こちらから返事をする必要のある案件は一件しか来なかった。学生から届いた作文の宿題も今日は少なく、それぞれに五分後には添削して返信した。
 それに、いつも通っている近くの市営プールがストのため、開門がいつも七時ではなく、八時になり、それで、午後四時から行くつもりでいたのだが、午後三時までで今日は閉まることが昼過ぎにサイトを見たら告知してあり、結果として、今日は水泳もやむなく休む結果となった。
 朝からずっと『古事記』の上巻を読み直していた。講義で紹介する原文箇所とその仏訳の対照表をエクセルで作成するためであった。夕方までかかったが、古事記の神話構造についての私なりの個人的「発見」もあったりして、なかなかに楽しい作業であった。
 その作業を終えた後、丸山眞男の「歴史意識の古層」に思いを致した。今日では、丸山の古層論は批判的に言及されることが多い。私自身、歴史のある時点に古層が何か固定された実体として形成され、それ以降、表層の変化にもかかわらず、歴史を通じてその古層が不変のままにとどまると考えるような決定論、日本思想史における古代からの「等質性」を実体化するような決定論にはまったく同意できない。
 ただ、末木文美士『日本宗教史』(岩波新書、2006年)を読んで考えたことは、「古層」という概念を、宗教思想史にかぎらず、思想史一般における可塑的概念として方法的に使うことはできるだろう、ということである。このことについて、一言で今の私の考えをまとめると次のようになる。
 古層そのものが時代の変化の中でつねに形成過程にあり、それは現在でもそうであり、その可塑的・過程的〈古層〉をその都度の現在において規定し直すことそのことが、その上に積み重なった複数の〈新層〉、現在の〈表層〉、あるいは局所的な〈断層〉・〈褶曲〉を新たに規定し直すことにほかならず、この作業は、単にこれまでの思想のダイナミズムを解明することを可能にしてくれるだけでなく、現在の思想にダイナミズムを与えることを可能にしてもくれるだろう。