単に一通りの、それこそ教科書的な知識を習得するためだけなら、わざわざ歴史の授業など必要ないのではないでしょうか。
それだけのことなら、例えば、最初にいくつか必読文献を挙げ、読んでおくように指示し、然るべきときに定期的に試験を受けさせて、知識が確実に習得されているかどうか確認すれば済むことでしょう。教科書的な知識を与えるだけの授業によって時間を拘束されるくらいなら、教員も学生たちもその時間を他のより有益なことに使ったほうがいいだろうとさえ私には思えます。
ましてや、歴史学科でもなく、日本学科の科目の一つとして課される日本史がそのような教科書的なものであっていいとは私には思えないのです。それは、特に、以下の二つの理由によります。
第一の理由は、本格的な歴史学研究の基礎を身につけることがその目的ではない、ということです。そのためにはまず史学科に行くべきでしょう。その後、あるいは、可能ならばそれと並行して、日本語を勉強した方がいいと私は思います。
それに、これは現実の問題として、仮に歴史学研究の基礎の習得がその講義の目的であったとしても、それができる教員が必ずしもすべての日本学科にいるとはかぎらない、ということがあります。私自身、歴史が専門ではないし、ましてや古代史など素人に等しい。そんな人間がまことしやかに古代史を語るのは、専門家に対する侮辱以外のなにものでもなく、学生たちに対しては、ほとんど詐欺行為だと言っていいでしょう。
これまで、いったいどれだけの教員がこういう自覚をもってこの講義を担当してきたのか、私はそれに対して非常に懐疑的です。
第二の理由は、講義の最終目的がいわゆる歴史的知識の習得でないとすれば、それとは別の目的のためにその講義は組織されるべきだろう、ということです。
「〇〇史」と題した講義で、歴史学習そのものを否定することは、もちろん自己矛盾でしょうから、そのような極端な立場は一応排除するとして、それにしても、いわゆる歴史研究そのものが目的でないとすれば、いったい何がその講義の目的なのか、明確に提示されなければならないでしょう。
以上の二つの理由から、毎年、「古代史」あるいは「古代文学史」の年度最初の講義で、学生たちに講義の「非歴史的な」目的を説明します。それだけで一回二時間の講義は終わってしまいます。それでも足りなくて、二回目、三回目にも追加説明を行います。
しかしながら、いわゆる概念的説明だけでは、こちらの意図をすべての学生たちによく伝えることは困難です。それで、試験問題は例えばこんな問題になるかもしれないよ、と早めに「予想問題」をこちらから提示しつつ、その出題意図を説明することで、よりよくこちらの意図を理解してもらうように努めています。
明日の記事では、そんな「予想問題」の一つをご披露させていただきます。