内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

虎視眈々から孤死淡々へ、あるいは美しくも曖昧な日本の私のジンセイカーン

2017-10-13 22:04:29 | 哲学

 いきなりですが、みなさん、文脈なしに、「コシタンタン」って、音だけ聞いたら、まず何を思い浮かべられますか。
 故事成語にまったく無知な輩(って、日本人限定で言ってますよ、念のため。そういう輩はたぶんこの漢字も「ヤカラ」って読めないかもしれないですね。「先輩」の「輩」だから、「パイって読むの?」ってところが関の山(って、関取の名前でもないし、山の名前でもないですよ)ですかね)は、「コシタンタン」って、「腰のある担々麺のこと?」って、畏れ多くも宣(のたま)われるかもしれませんね(クワバラクワバラ)。
 むか~しむかし、高校入試を控えた中学生を塾(って「受苦」と発音同じだね)で教えていました。それは古典の授業でした。平家物語のある一節に関する四択問題で、「次の四つ訳の中から正しいものを選べ」という設問でした。当該の語句は「こはいかに」です。もちろん、正解は、「これはいったいどうしたことか」です。
 常々感心するのは、出題者が考え出す誤った選択肢です。これは正解を考えるよりはるかに難しい。なぜなら、誤答を考えるためには、専門家としての知識と一般人としての常識とだけでは十分ではなく、作家的な豊かな想像力と芸人的な余裕あるユーモアも必要だからです。ちなみに、この両者を兼ね備えることなしに知性はありえない、と私は愚考つかまつっております。
 それでね、その「こはいかに」のことなんですが、誤った選択肢の一つに「怖い蟹だなあ」ってのがあったんですよ。これには、私が教えていた出来の芳しくない、日本人なのに日本語がなぜか不自由な中学生も、さすがにこれは「ありえん!」って、抱腹絶倒していましたよ。
 でもね、この子の無知ぶりというのは、ほとんど無双と言ってもいいほど、すごかったんですよ。あるとき、自分よりも少し年上の女性―といっても二十歳前ですが―が、丁寧な礼状をその子のお父さんにある一件について送ったことがあったんですね。その手紙の末尾に「かしこ」って書いてあったのをその子がたまたま読んで、「ふ~ん、〇〇ちゃんて、本当の名前は「かしこ」っていうんだぁ」と言うのを聞いて、その子の両親は、一瞬絶句し、その後悶絶し、呼吸不全で救急車で病院に運ばれたそうです(っていうのは、もちろんウソです)。
 話を元に戻しますと、「コシタンタン」って、「虎視眈々」でしょ、というのが良識ある日本人の一般的な答えですよね。ある辞書によると、「虎が、鋭い目つきで獲物をねらっているさま。転じて、じっと機会をねらっているさま。「虎視眈眈とチャンスをうかがう」」ということになります。
 私は、それに対して、発音だけ同じということで、「孤死淡々」という四字熟語を提案したく思っております。「どういう意味?」って思われた方も少なくないことでしょう。でも、難しいことではございません。
 ここ数年メディアでも頻繁に取り上げられ、行政もその対策に躍起になっている素振りを示しはじめているかに見える社会現象として、「孤独死」あるいは「孤立死」ということがありますね。その事後処理がビジネスとして成り立っているというのが現実です。その現場の悲惨さは、私もネット上の特集記事をいろいろ読んで一応の認識は得ておりますし、それらの記事を読みながら、「ほんと、他人事じゃないよなぁ」と、一再ならず長嘆息したことがあることをここにショージキに告白しておきまーす。
 でもね、いつどこで死ぬかわからないのは誰も同じですよね。ですから、あまり今の自分のあり方を深刻に考え過ぎずに、路傍にその屍を静かに横たえる野良犬(って、日本ではいなくなっちゃいましたけど、インドなんか、今でもガンジス川沿いにゴロゴロいるんじゃないですか)のように、孤独な死をそれとして淡々と受入れる生き方があってもいいのではないかと思うんです。というわけで、「孤死淡々」という四字熟語を考案した次第でございます(いつか辞書に採用されることを夢見つつ……)。
 別案として、「枯死淡々」というのもあります。冬枯れの樹木が、実は誰にも気づかれずにひっそりと冬の間に枯死していて、翌春、芽吹くことなく、花咲くことないのを見て、はじめて人々はその死に気づく、という「心」でございます。