内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

声と意味 ― テキスト朗読についての酔いどれ対話

2017-10-04 23:25:17 | 講義の余白から

 今朝、プール、サボりました。― ええぇ、どうして? 今朝、雨降ってなかったじゃん。― うん、そうなんだけど。行けないほど仕事が詰まっていたわけじゃなかったしね。でも、なんか、いいじゃん、そんな頑張らなくても、一日くらい、自分許してあげなよって、感じで。― それって、わかる気がするけど。
 今日もね、いろいろ思うこと、あったんだ。― あれぇっ、ムッシュー、今日もご機嫌ななめなの? ― いや、そうじゃなくて。私、引きずるタイプじゃないし。― それ、ウソ、よね。― あっ、ごめん。今、ウソ、言いました。でもさ、当たり前じゃない、なにか思うことがあるのって。だって、なにも思うことなしに生きている人がいたら、それこそ、それは、人でなし、でしょ? ― そりゃ、そうね。― でもね、どうせ何か思わざるを得ないのが人間なら、いいこと、思いたいし、嫌な奴のことじゃなくて、好きな人のこと、思いたいですよね。― うん、少なくとも、普通は。
 でもさ、ときどき、使いたくなるんだよね。北斗の拳のあのセリフ。 ―「おまえはすでに死んでいる(Tu es déjà mort(e) )!」、でしょ。― そう、そのとおり。
 まあ、いいや、そんなこと、どうでも。― なんなの、それ、話、聴いてあげてるのに。― あっ、ごめん、ありがと。でも、それよりさ、今日の修士の演習で気づいたことがあって。― なに? ― 今さらなんだけど、声と意味って、切り離せないなぁって、いうか。― どういうこと? ― 学生たち一人一人に同じテキストを声に出して読ませたんだ。漱石の『心』の「先生と遺書」の一節で、高校の教科書にもよく採用されている箇所。ちょっと読んでみて。

ある日私は久しぶりに学校の図書館に入りました。私は広い机の片隅で窓から射す光線を半身に受けながら、新着の外国雑誌を、あちらこちらと引繰り返して見ていました。私は担任教師から専攻の学科に関して、次の週までにある事項を調べて来いと命ぜられたのです。しかし私に必要な事柄がなかなか見つからないので、私は二度も三度も雑誌を借り替えなければなりませんでした。最後に私はやっと自分に必要な論文を探し出して、一心にそれを読み出しました。すると突然幅の広い机の向う側から小さな声で私の名を呼ぶものがあります。私はふと眼を上げてそこに立っているKを見ました。Kはその上半身を机の上に折り曲げるようにして、彼の顔を私に近づけました。ご承知の通り図書館では他の人の邪魔になるような大きな声で話をする訳にゆかないのですから、Kのこの所作は誰でもやる普通の事なのですが、私はその時に限って、一種変な心持ちがしました。

 ああ、私も高校生のとき、国語の授業で読んだことある。― でしょ。この一節は話の展開の上で特別重要な箇所ってわけでもないけれど、見事なんだよね。文章として完璧というか。― 確かに、なぜかよくわからないけど、声に出して読むと、まざまざと情景が浮かんでくるというか。― そう、そうなんだけどさ、今日、演習で学生たちに読ませていて、ちょっとハッとしたことがあって。― なに? ― そう意図したわけではないんだけれど、結果として、まず女子学生五人に読ませることになったんだ。― うん、それで? ― みんな、真面目な子たちだから、ちゃんと練習してきていて、上手に読んだんだよ。でもさ、なにか違うっていうか、聴いていてもぜんぜん情景が浮かんでこないというか、そういう意味で読めてないのさ。― ふーん。― ところがね、その後に読んだ男子学生の声を聴いて、ああ、これだ、この感じがテキストにぴったりだって、直感したんだ。別にうまいわけじゃあないんだよ。ときどきつっかえるし。その点、女の子たちのほうがうまかったくらい。
 つまりね、なにが言いたいかというと、― はいはい(Je t’écoute. Vas-y.)― テキストの意味が賦活されるためにはそれに相応しい声があるということなんです。それは上手下手とはちがった次元の問題というか…。
 あのさぁ、今日、もう遅いしぃ、その話、また明日にしない? ― ああ、そうですね。私も明日の授業の予習まだ終わってないし、学生たちの宿題添削もまだ残っているし。― じゃあ、おやすみぃ。― ああ、うん、おやすみなさい。