内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「いやしすぎるぞ、わが心。あさましすぎるぞ、わが行い」―『日本霊異記』著者景戒の自虐的懺悔を現代語訳で読む

2017-10-12 21:22:50 | 読游摘録

 遠い昔に書かれた日本語の古典を原文で読んだだけで、その文章の書き手の息遣いまで感じるということはなかなかに難しい。だから、原文の表現のニュアンスをよりよく感じ取りたければ、学者先生たちの注釈をたよりにすることになる。注釈の中には現代語訳もついているのがある。それを読めば、確かに内容はよりよく理解できる。でも、その現代語訳は、現代日本語としては不自然だったり、ぎこちなかったりして、とてもその訳を文学作品として鑑賞することは難しいことが多い。それはあくまで原文を味わうための補助手段にすぎない。このことは当の訳者である先生たち自身がよくご存知のことだ。
 そのような学者先生たちの現代語訳とは違って、文学者が現代語に訳した古典には、それ自体が作品として読めるような見事な文章に仕上がっている場合もある。
 河出書房新社から出ている池澤夏樹個人編集の『日本文学全集』にはそんな名訳がたくさん収められている。
 伊藤比呂美が訳した『日本霊異記』には、かなり露骨な表現も散見されるが、原文でも相当に大胆な表現が採用されている。平安時代にこの説話集を読んだ人たちには、きっと私たちが伊藤比呂美訳を読んで感じるのと同じか、あるいはそれ以上のインパクトがあったのではないかと想像される。
 下巻の最後から二番目の第三十八話には、世間のお偉方の堕落を叙述した後に、突然、著者景戒自身の自虐的とも言える懺悔の言葉が「嗚呼恥哉」から始まり、それは数行に渡り、「鄙哉我心微哉我行」と締め括られる。そこを読むと、昔も今も変わらないよなあ、とつくづく思う。伊藤比呂美訳を引いておく。

ああ、はずかしい。あさましい。
この世に生まれて生きてはいるが、生き方がわからない。
因果の理に引きずられて、執着する。
業や煩悩にまつわりつかれて、生き死にをくり返す。
あくせくとかけずりまわって、この身を焦がす。
俗家に住んで、妻も持った、子も出来た。
でも養うものがない。
食うものがない。菜がない。塩がない。衣がない。薪がない。
いつだって何もない。
何をあくせく。
明日をのみ思いわずらう。
昼は飢えて寒い。夜もまた飢えて寒い。
わたくしが前世で施しをしなかったからだ。
いやしすぎるぞ、わが心。
あさましすぎるぞ、わが行い。