内的自己対話-川の畔のささめごと

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読みの卓越性を競い合う遊びとしての会読 ― 荻生徂徠門下の蘐園派の場合

2019-02-01 19:24:37 | 読游摘録

 前田勉の『江戸の読書会』でホイジンガの『ホモ・ルーデンス』より多く言及・援用されているのがロジェ・カイヨワの『遊びと人間』(Roger Caillois, Les jeux et les hommes, Gallimard, 1re édition 1958, édition revue et augmentée 1967)である。本書には二つ邦訳がある。1970年刊行の清水幾太郎・霧生和夫訳岩波書店版と1990年刊行の多田道太郎・塚崎幹夫訳講談社学術文庫版である。前者はもはや古本でしか入手できないが、後者は今でも流通しているようである。前田書が引用しているのは前者である。
 カイヨワは、本書で、遊びの主要項目を四つに区分している。サッカーやチェスやビー玉をして遊ぶアゴーン agôn(競争)、ルーレットや宝くじで遊ぶアレア alea(偶然)、海賊遊びをしたり、ネロやハムレットを真似て遊ぶミミクリー mimicry(模擬)、回転や落下などの急激な運動によって、自分の中に混乱狼狽の有機的状態を作る遊びをするイリンクス ilinx(眩暈)の四つである。
 会読は、アゴーンに相当すると前田は言う。参加者がお互いの読みを競い合う勝負の場だからというわけである。カイヨワによれば、「競争とは、勝者の勝利が正確で文句のない価値を持ち得るような理想的条件の下で競争者たちが争えるように、平等のチャンスが人為的に設定された闘争である。」(« un combat où l'égalité des chances est artificiellement créée pour que les antagonistes s'affrontent dans des conditions idéales, susceptibles de donner une valeur précise et incontestable au triomphe du vainqueur. »)
 徂徠門下の蘐園派の会読は、この意味で、まさにアゴーンであり、太宰春台が作成した「紫芝園規条」は、アゴーンにおける「平等のチャンス」を人為的に設定しようとする試みであった、というのが前田の主張である。仁斎の同志会での会読は、世俗の利害関心から隔絶した異次元の空間を創り出すための儀式をともない、神聖さと競争とは表裏であったのに対して、徂徠門下の会読では、神聖さの面が消え、遊びの本質がよりはっきりしているという。両者の学問の性格の違いが、思想の内容からからではなく、共同読書方法の形式という観点から照らし出されており、大変興味深い指摘である。