内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「空見た子とか」― 遠い昔の想い出

2019-02-05 23:59:59 | 雑感

 昨日の記事を書いていて、ふと思い出したことがあります。
 遠い、遠~い昔、ラジオの深夜放送をよく聴いていました。その中の一つに、小室等と吉田拓郎がDJで、小室のさももっともらしい講釈に吉田が絡むみたいな形で進行する趣向の番組があってですね、あるとき、「そらみたことか」の話になって、小室等が、この言い回しは「空見た子とか」から来ているんじゃないかって言い出したことがあったんです。吉田拓郎は、また小室さん一流の牽強付会だなぁ~って感じで、まともにとりあっていなかったと記憶しているんですが、私はといえば、吉田に同意しつつ、すごく小室説が印象に残ったんですね。その小室の講釈はすっかり忘れてしまいましたけれど。
 普通の意味では、「そらみたことか」は、「ほ~ら、言わんこっちゃない」的な、それこそ「自業自得」的な、相手の軽率さや頑なさを嗜めるときに使う表現ですよね。だから、「空見た子とか」とは何の関係もあるわけがない。
 この放送の後の出版のはずなのですが、野田秀樹の処女長編小説(?)と言われている作品のタイトルが『空、見た子とか』(1984年)なのですね。読んだことありませんし、中味もまったく知りませんし、これを機会に読んでみようとも思いませんが、偶然の一致なのですかね。
 それはともかく、「自業自得」的な人生を送っているわたくしとしては、「空見た子とか」という、だから何なの?的な表現に、よくわかりませんが、救いを感じます。
 まったく勝手な空想ですが、「空見た子」は、空の魅力に取り憑かれてしまい、何かと言えば空を見上げて夢想に耽りやすく、現実生活では不注意でヘマばかりしているような、でもどこか憎めないというか、そんな感じの子なんじゃないでしょうか。
 それに「とか」が付加されることで、「例えばそんな感じだね、君は」と言われていると思うほうが、「ざまーみろ」的な冷たい「自業自得」よりも、自己努力・自己決定・自己責任を意味する福沢諭吉的な積極的かつ建設的な「自業自得」よりも、追い詰められずにすみます。少しですが、希望も持てます。
 空を見上げて、今日も一日生きてみようか、と。