白川が『初期万葉論』で繰り返し述べているように、自然の生命力を己のうちに取り込む魂振り的機能をもった呪歌に詩の起源を探すべきであるとすれば、そのような呪歌に見られる叙景的要素は、本来叙景そのものを目的とはしてないということになる。
例えば、巻一・一五の中大兄皇子の「わたつみの豊旗雲に入日さし今夜の月夜さやけかりこそ」(訓みは岩波文庫新版に従った)は集中でも傑作中の傑作とされているが、その理由は、叙景歌としての類稀な雄大さにあるのではなく、これから戦いの旅へと出で立つ一行のための予祝歌として言霊の威力を遺憾なく発揮しているからである。伊藤博は『萬葉集釋注』の中で本歌について、作者を額田王とする中西進説(『万葉集の比較文学的研究』)に賛意を表しつつ、こう述べている。
新羅遠征の一行の中で、これだけの歌を作れる人は、額田王をおいて誰をも考えにくい。額田王だとすれば、その御言持ちという立場からして、一首は、総帥斉明女帝その人になりきって詠んだと見るべきであろう。皇太子中大兄の声に応じて天皇の声をもってより気高くより鮮明にうたい納めた、その一かたまりの荘重な予祝は、遠く旅行く軍団に厳粛な感動を誘ったことであろう。
いわゆる叙景歌の成立は、このような言葉の呪性・予祝性の衰弱あるいはそれらへの信仰の喪失をその条件としている。古代の予祝歌が神と人との共生と共鳴の世界においてその機能を果たしていたとすれば、万葉第三期以降に登場する叙景歌は、自然の景色と人間の心情との協和と交響の世界において成立する詩的表現だと言うことができるだろう。しかし、その心情が集合的心性をまだ表現し得ているかぎりにおいて、山部赤人の叙景歌にはなお呪的性格が残っている。ところが、大伴家持の歌になると、もはやそのような意味での叙景歌はありえなくなっている。叙景は家持において孤心の表現に極まっていく。