日本の大学の教育レベルやそのシステムにもいろいろと問題があることは知っているが、問題の深刻さにおいてはフランスも負けてはいない。というか、悪化の一途を辿っているのではないかと、つい悲観的な気持ちになる今日このごろである。現場では、教員たちはそれぞれにみな努力をしていないわけではない。しかし、その努力を嘲笑うかのごとき悪名高きシステムがフランスの大学をここ十数年蝕みつつある。
そのシステムは « Compensation » という。日本語に訳せば「相殺制度」とでもなろうか。簡単に言うと、ある科目で不合格点でも、他の科目で良い点を取り、総合平均点で合格点(20点満点で10点)に達していれば、セメスター全体を取得したとみなすのである。
事の起こりは二十年ほど前だったと記憶しているが、当初は一種の救済措置だった。他はみんな合格点が取れているのに、一科目だけ不合格で、セメスターが取得できないのは気の毒だというようなことのがその導入の理由ではなかったかと思う。
最初は、この制度の適用には様々な制約があり、その効果も限定的であった。それが年を追うにつれて適用範囲が拡大され、適用条件が緩和され、現状では実に悲惨なことになっている。
例えば、英文学専攻の学生が、簡単に高得点が得られる自由選択科目で16点を取り、必修科目の英文学史で4点を取ったとしよう。もしその他のすべての科目の平均点が10点に達していれば、この学生はそのセメスターを取得したことになる。一科目とは限らない。主専攻の必修科目をいくつか落としていても、その他の科目で点数を稼げば、同じ結果が得られる。
それだけではない。前期の総合平均点が8点て後期が12点ならば、その学年を修了したことになる。この逆でもよい。つまり前期12点で後期が8点でも合格である。さすがに学年間の相殺はない。そこまでいけば大学教育の自殺であろう。
日本学科に即していえば、日本語の成績は悪くても、日本語とは何の関係もない選択科目で点数を稼いで学年をあがっていくことができるということである。3年生になっても小学生レベルのテキストもまともに読めず、同レベルの漢字もろくに読めもしなければ書けもしない、聴解能力も一年からほとんど進歩していないような、どうしようもない学生が毎年必ず何人かいる。そこまでひどくなくても、肝腎の主専攻科目において合格水準以下でも上がってきてしまい、果てはそのまま卒業してしまう学生も少くない。
彼らは何も規則上ズルをしているわけではない。「相殺制度」を十全に活用しているだけだ。だから深刻なのだ。最初からこの制度をあてにして、各学年の最低限要求レベルに達する努力もせずに、いかに楽に単位を取るかしか考えていない学生が確実に一定数いる。彼らに自覚を促してもほとんど無駄である。彼らは「権利」として「相殺制度」を「享受」しているのであり、なんの恥じるところもない。
この制度が廃止されれば、たちどころに留年生が倍増するだろう。だから当局は廃止できない。そして現場の教員たちは、確信犯的にこの制度を悪用する学生たちに怒りを覚えつつ、為す術もなく、水準に達していない学生たちを前にして絶望の一歩手前に辛うじて踏みとどまり、ただ疲弊していくのである。