竹内整一の『ありてなければ 「無常」の日本精神史』(角川ソフィア文庫、2015年)の「おわりに」、村上春樹が2011年6月に「カタルーニャ国際賞」を受賞した際に行ったスピーチ「非現実的な夢想家として」の一節が引用されている(このスピーチの全文はこちらのサイトで閲覧できる)。このスピーチのはじめの方でも、東日本大震災のことを述べた後に、「無常」という言葉について村上春樹はこう述べている。
⽇本語には「無常」という⾔葉があります。いつまでも続く状態=常なる状態はひとつとしてない、ということです。この世に⽣まれたあらゆるものはやがて消滅し、すべてはとどまることなく変移し続ける。永遠の安定とか、依って頼るべき不変不滅のものなどどこにもない。これは仏教から来ている世界観ですが、この「無常」という考え⽅は、宗教とは少し違った脈絡で、⽇本⼈の精神性に強く焼き付けられ、⺠族的メンタリティーとして、古代からほとんど変わることなく引き継がれてきました。
このような大雑把なまとめ方には私はもちろん同意できないが、今はそのような揚げ足取りをしたいのではない。このような仕方で「無常」を受け入れるという心性が古代から日本人に浸透しているという考えが今日もなお広く受け入れられている理由こそ気になるのだ。こんなふうにまとめられると多くの日本人が現代でも「そうだよなぁ」となんとなく納得してしまうのはなぜなのだろうか。この問題には日を改めて立ち戻ることにしよう。
このスピーチで、村上春樹は、「美しい日本の私」的な日本文化賛美がしたかったのではないことは、「無常」という言葉をもう一度引くスピーチの終わりのほうを読むとわかる。竹内整一もそこを引用している。
最初にも述べましたように、我々は「無常(mujo)」という移ろいゆく儚い世界に⽣きています。⽣まれた⽣命はただ移ろい、やがて例外なく滅びていきます。⼤きな⾃然の⼒の前では、⼈は無⼒です。そのような儚さの認識は、⽇本⽂化の基本的イデアのひとつになっています。しかしそれと同時に、滅びたものに対する敬意と、そのような危機に満ちた脆い世界にありながら、それでもなお⽣き⽣きと⽣き続けることへの静かな決意、そういった前向きの精神性も我々には具わっているはずです。
これは、この世界の儚さの認識が現代世界を生きるものすべてによって共有されることへの期待と希求の表現であろう。唐木順三は、1964年に刊行された『無常』の序で、「「無常」は、今日では世界的な意味をもつ、またもちうる内容がある」と書いたが、その約半世紀後に発された村上春樹の言葉のうちに私たちはその反響の一つを聴き取ることができる。