昨年夏からずっと気になっている日本語の表現が一つある。それは若者たちがよく使う「大丈夫です」という言い方である。それは老人の私には受け入れがたい用法なのだが、若者たちはそれに何の違和感も抱いていない。
ごく一般的な用例として挙げることができるのは、自分の目の前で転んだ人がいたり、具合悪そうにしゃがみこんだ人がいたとして、その人に対して「大丈夫ですか」と聞き、その人が「ええ、大丈夫です」と答えるような場合だ。この場合、答えの方の「大丈夫」は、「ご心配なく、大したことありません」という意である。この意では、私自身もなんの違和感もなく使うことだろう。
第二の用例は、コンビニなどで、百円前後の小さな買い物をしようとして、あいにく一万円札しかもっておらず、「あのー、一万円札しか持ってないんですけど」と客が済まなそう聞きいたとき、それに対して店員が「大丈夫ですよ」と答える場合だ。この用法は、すでにあまりにも一般化しているので、今さら目くじらを立ててもしょうがないのだが、私はといえば、客の立場であれば、無礼に感ずる。なぜか。このように「大丈夫」を使う店員が、「本当はちょっと迷惑なんだが、まあ仕方ない、受け入れますよ」というような、客に対して上から目線でものを言っているように感じられてしまうからだ。
もちろん、今では、この「大丈夫」を使う側にそのようなネガティブは気持ちはまったくないことも多い。つまり、「ええ、どうぞ。なんのお気遣いも要りませんよ」というつもりで、「気持ちよく」受け入れる姿勢を表している場合も多い。だから、私自身はこのような「大丈夫」の使い方は絶対しないが、人が私に対してそのように使うことは観念して受け入れている。
しかし、次に挙げる第三の用例を最初に聞いたときにはショックだった。それは、映画館で本編の始まる前のコマーシャルフィルムの中でのことだった。数名のキャラクターが画面に登場する。その中の一人にすごい「うざい」奴がいて、自撮りした写真を周りの知り合いに「ねぇねぇ、見てよ、いいでしょ」的な態度で相手から「いいね!」的なリアクションを引き出そうと動き回る。皆、ちょっとうんざりしていて、いい加減な返事を返すのだが、最後の一人がその自撮り写真を見ようともせず、一言きっぱりと「大丈夫です」と言い放ったのである。つまり、彼はケンモホロロに拒否ったわけである。
こんな用法ありなの? とあっけにとられた。それ以後、日本人の学生たちに日本やフランスで会う機会があると、必ずといっていいほど、「あなたたちはこういう使い方をしますか」と聞くと、異口同音にするという。
昨日話題にした日仏合同ゼミに参加した法政大学の学生さんたちにも聞いてみた。やはり使うという。しかも、それはむしろ丁寧な断り方だと思っているという。例えば、先生から何かの提案を受けて、それを断る場合、直接的な断り表現を避けるために「大丈夫です」を使うというのだ。「少し考えさせていただけないでしょうか」とか「申し訳ございません。あいにくすでに予定が入っておりまして」とか「お恥ずかしい話ですが、まだ準備ができておりませんので」とか、状況に応じてそれに相応しい断り表現を選ぶかわりに、簡潔この上ない「大丈夫です」の一言で、どんな場合でも「簡単に」丁寧に断ったことになると思っているらしい。
この第三の「大丈夫です」の用法は、現代の若者たちのどんな心性を表しているのだろうか、と老教師は考え込んだ。さしあたりの答えは以下の通り。
この「大丈夫です」は、それを向ける相手に対して、「それがなくても自分はまったく困らない」、「それを必要としていない」、さらには「そんなもの排除したい」という意味で発される。自己完結的で、自分の世界から出ようとはせず、場合によっては、それ以上のコミュニケーションを拒否する態度の表明でさえある。
日本人の学生諸君よ、「大丈夫な」君たちは、ほんとうに大丈夫なのか。この老教師の言っていることは、まったく的外れであり、ボケの兆候でしかないのだろうか。