本書は、半世紀以上にも渡って死刑囚の教誨師を続けた僧侶渡邉普相(一九三一-二〇一二)の生涯を本人へのインタビューを中心に辿り直したノンフィクション作品である。昨年末から堀川惠子の死刑制度に関する一連の作品を読み始めてこれが四冊目になる。初版単行本は二〇一四年刊行。手元にあるのは、昨年刊行された講談社文庫版。一週間かけて今日読了。
死刑が確定すると、死刑囚は面会や手紙など外部とのやりとりを厳しく制限され、死刑が執行されるまでの日々のほとんどを拘置所の独房でひとり過ごす。教誨師は、そんな死刑囚たちと唯一、自由に面会することを許された民間人である。間近に処刑される運命を背負った死刑囚と対話を重ね、最後はその死刑執行の現場にも立ち会う。一銭の報酬も支払われないボランティア。
渡邉ほど長い間教誨師を務めたものは過去にいない。おそらく今後も現れないだろうと堀川は言う。理由は、その任務の過酷さである。身体よりも心がもたなくなる者が多いという。そんな務めをなぜ半世紀も続けているのか、いや続けることができたのか。堀川は渡邉に本音を聴いてみたいと思う。
しかし、単に法務省が課す守秘義務という理由からではなく、渡邉は彼女の問いかけに容易に答えようとはしなかった。一年目は、渡邉が住職を務めるお寺で出された茶を飲んでは帰ることの繰り返し。
一年経って、ある話題がきっかけになり、ようやく渡邉は死刑囚との日々について口を開くようになる。聴き取りは二年に渡る。始めて一年ほどして、主要な話の一部は、本人の許可を得た上で録音もした。渡邉が付けていた「教誨日誌」も貴重な資料となる。
その話の全貌はとてもここに一言では要約できない。ただ、一つだけ、とても印象に残ったエピソードを記しておきたい。
死刑囚の教誨師という過酷な務めを無報酬で半世紀も続けた僧侶であるから、さぞや特別な人格者であったのだろうかと読む前は漠然と想像していた。しかし、渡邉自身が深い苦悩を抱えてそれと向き合って生きてきた一人の弱き人間であった。本書には理由ははっきりと示されてはいないのだが、二〇〇〇年を過ぎてから、渡邉は朝から浴びるように酒を飲むようになり、ついにはアルコール依存症の治療のために入院することになる。
そして、入院先の病院から東京拘置所に教誨師として通い続ける。最初の頃は、入院していることは死刑囚たちには隠していた。「教誨師が“アル中”ではきまりが悪い」と思ったからだ。しかし、苦しい断酒との戦いで体調や気分にも波があり、面接に行けないこともあった。面接を休むなど、それ以前には何十年もなかったことである。
休む度、嘘の理由を考えなくてはならなくなった。しかし、嘘に嘘を重ねていることが虚しくなる。「もう楽になりたい」と、渡邉はとうとう死刑囚たちに、こう打ち明ける。
「実はわっし、今、“アル中”で病院に入っとるんじゃ。酒がやめられんでね。たびたび面接も休んでしもうて、申し訳ないことですな」
すると、アルコール依存症どころか、覚醒剤中毒にも苦しんだ経験を持つ者も多い死刑囚たちの中から、思いもかけぬ反応が返ってきた。
「先生、あんたもか! それは苦しいだろう、分かるよ。覚醒剤も酒も同じだ。でも、私は独居房ですっかり薬が抜けましたよ。フラッシュバックで大変な時もあったけど、もう平気。まずは体から薬を抜く、それしかない。自分で止めるしかありませんよ」
こう渡邉は死刑囚たちから指南され、励まされたのである。噂はあっという間に死刑囚たちの間に広まった。それまで面接でろくに口をきこうとしなかった死刑囚の中にも酒や女の話など自分の方から経験を打ち明ける者も出てきた。少し休んで面接に出かけると、「先生、大丈夫だったか」と抱きついてくる者まで現れた。
渡邉が本来は隠したいような弱みをさらけだしたことで、彼らは教誨師という特殊な立場にあった渡邉をひとりの人間として認めたのかもしれなかった。(三二五頁)
ここまでの一節を読んで、私は深い溜息をついた。それは、安堵というのとは少し違う。この一節の前までは、重く難しい問題をずっと突きつけられっぱなしで、救いのない話の連続に苦しい思いをしながら読んできた後、この一節を読んで、ほんの少しだが、正直、救われる思いがしたのである。もちろん、現実には何も問題は解決していない。だが、人と人とがわかり合える瞬間というのはこのようにして訪れるものなのだなあと深く印象づけられたのである。