内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

万葉集における無常観と自然観との関係について

2019-02-22 14:08:41 | 講義の余白から

 実質的に来週の木曜日から始まる修士一年の演習「近現代思想」で唐木順三の『無常』を学生たちと「会読」することはすでに先週の記事で触れた。その準備の一環として、唐木の『無常』ではまったく触れられていない万葉歌における無常観について昨日から調べている。
 「はかなし」という一形容詞の犀利な分析から始まる唐木書が万葉集に言及しないことは、この形容詞の用例は万葉集には皆無で、平安時代に入って初めて登場するという語史的事実の当然の帰結ではあるが、日本人の無常観(あるいは無常感)を文学に現われた思想の問題として歴史的に考察しようとするとき、万葉集において表現されている無常観を無視することはできない。
 唐木は、『無常』の序において、「「あはれ」と違って、「無常」は、今日では世界的な意味をもつ、またもちうる内容があると、私は思う」と述べているが、そのような意味があるかどうか徹底的に検証するためには、日本思想史全体を視野に収めるアプローチが必要であろう。唐木の『無常』にその冒頭で言及している竹内整一の『ありてなければ 「無常」の日本精神史』(角川ソフィア文庫二〇一五年刊、初版『「はかなさ」と日本人』平凡社二〇〇七年刊)には、「万葉人の人生観」と題された節があり、確かに興味深い考察が示されてはいるが、十分に掘り下げられているとは言い難い。
 万葉時代と一口に言っても、通常四期に分けて説明されているように、それぞれの期において歌の機能・内容・時代背景・思想的含意は異なる。それらをいっしょくたにして「万葉精神」などというものを抽出しようとすることは、そもそも学問的にはまったく通用しない暴挙である。
 そこで、手始めに、無常感あるいは無常観に関わりがあると思われる万葉歌を網羅的に考察した佐竹昭広の「「無常」について」(『萬葉集再読』平凡社二〇〇三年刊)を手がかりに、そこに挙げてある万葉歌を一首一首読み直し、鍵概念・原文・読み下し文などが瞬時に検索できるようにエクセルで一覧表を作成してみた。この作業を始めてすぐに、演習の準備などという枠には収まらない大変な問題に首を突っ込んでしまったことに気づいた。しかし、遅かりし、である。ここまでくれば、もう後戻りはできない。
 当然、とても一回の記事で収まりのつくような問題ではないわけだが、他の仕事もあり、特に計画を立てることはせずに、折りに触れ、時間の許すかぎり、この問題をじっくりと考えていきたい。そう思う理由の一つとして、ここ数週間考え続けている様々な問題を « communion » の問題という一点において交叉させることができることに気づいたということもある。リール大学の現象学研究集会での西田とアンリについての発表(あと三週間を切ったというのに、まだ一行も書けていない)も、この « communion » の問題に論点に集約させようと目論んでいる。