内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

いつでもどこでも繋がれることで失われるもの ― 人はいつでもどこでも出逢えるわけではない

2020-07-25 23:59:59 | 雑感

 今日の午後は、札幌・京都・ストラスブールの三箇所を結んだZOOM飲み会がありました。それはとても楽しい時間で、気がついたときには四時間近く経っていました。その間に白ワイン一本(Chardonnay)空けてしまいまして、今、ボルドーの赤ワインを飲みながらこの記事を書いていております(飲みすぎ注意!― わかっちゃいるけどやめられない)。ですので、記事の内容の整合性については保証できません(過去の記事にも別に保証はついていませんでしたが)。
 まあ、いいじゃないですか、こうして月に一度位は、気心の知れた人たちと自由に話すくらい。なんて思っているのは、最年長者で、好き勝手に長広舌を振り回した私だけなのかも知れませんが。話題は多岐にわたり、要約のしようもないので、一言だけ、私見を述べさせていただきます。
 三月以降の遠隔授業・研究会・シンポジウムの実践を通じて積極的な成果として得られたことは、単に偶々うまくいってよかったネ、ということではなく、これまでの授業のあり方について私たちに反省を促し、これからの授業・議論・共同研究の形態の新たな可能性について具体的にプランを構想することができるようになったことです。
 例えば、ある授業で、ゲスト講師をお招きする場合、対面授業の場合は、謝礼云々の話は措くとして、日時の調整だけでもやっかいなことがあります。その調整はうまくいったとして、とにかく教室までご足労願わなくてはなりません。これまででも、学生たちがいる教室と他の場所をネットで結んで授業を行なうことは技術的に可能だったわけであり、私自身、三年前からフランスと日本を結んで演習を行なうことを試みてきました。ただ、接続環境その他技術的な問題もあり、アイデアそのものは悪くなかったとしても、実際にうまくいっていたとは言えない程度でした。
 しかし、三月来、遠隔授業が有無を言わせない仕方で一斉に強制され、いわば世界規模での大実験が数ヶ月に渡って行われたことで、それ以前とは比較にならないほど具体的に、遠隔授業の可能性について教師も学生も嫌でも気づかされました。今後遠隔授業がスタンダードになるかどうかは別として、各自が地理的に互いに離れ離れであることは共同で何かをすることの乗り越えがたい障害ではないということが皆に一挙に理解されたことが、これからの研究・教育のあり方を大きく変えていくきっかけになることは間違いありません。
 と言っておきながら、なのですが、エンカク・イケイケドンドン派(と私が勝手に名付けている現在ノリノリの方々のこと。略してEID派)にあんまり図に乗ってほしくないなあと強く思っています。ネット上では、当然の成り行きとして、このEID派が幅を利かせているのが現状ですが、タイメン・ヤッパダイジダゼ派(これも私の命名で、私はこっちの派に属しております。略してTYD派)が現実にはサイレントマジョリティーだと思うのですが、そういう人たちの声をかき消すような形で一挙に一方に突っ走ることは、たとえEID派の主張に正論が含まれているとしても、間違っているだけでなく、危険なことだと私は思います。