内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

自他の言葉に耳を澄ます時間を持てなくなった現代人 ― カール・クラウスの言語論を読み直すべき時

2020-07-21 23:59:59 | 読游摘録

 ちょうど一年前のこの日の記事で取り上げた古田徹也『言葉の魂の哲学』(講談社選書メチエ 2018年)の第三章「かたち成すものとしての言葉――カール・クラウスの言語論が示すもの」を読み直していて、著者がクラウスの時代と現代とを比較して、言葉のあり方について次のように述べているところに、今年前半のコロナウイルス禍を経て、あらためて強く共感した。

 現在のマス・メディアが、クラウスが直接対峙していたものと同様の影響力をもっていないという見方は、多分に疑わしい。だが、たとえ仮にその見方を受け入れたとしても、状況はむしろさらに悪くなりつつあると言えるのではないか。自分の主張として他者の言葉をそのまま反復することは、まさにソーシャル・メディア・サービスの恩恵を受ける現在の方が遥かに簡単である。実際、いま急速に拡大しているのは、他者の言葉に対する何の留保もない相乗りと反復に過ぎないのではないか。秒単位のタイムスタンプが押された言説がリアルタイムで無数に流れる状況にあっては、言葉を発する方も受ける方も、自他の言葉に耳を澄ますどころか、時間に追い立てられ、タイミングよく言葉を流す即応性に支配されているのではないか。「リツイート」や「シェア」等の反射的な引用・拡散や、「いいね」等の間髪を入れない肯定的反応の累積がもたらすのは、それによって単に重量を増した言葉が他の言葉を押しのけるという力学であり、かつてない速度と規模をもつデマや煽動の生産システムではないのか。あるいは、そうした引用・拡散や肯定的反応を誘うような言葉を発するという、絶え間ない常套句の生産システムではないのか。称賛も非難も、議論や煽り合いも、結局のところ常套句(あるいは、それよりさらに寿命が短く適用範囲が狭い流行語)の使用への硬直化し、その反復や応酬の勢いと熱量が、物事の真偽や価値の代用品となってしまっているのではないか。そうして、我々が向かおうとしているのは、重量と勢いと熱量のある声への――その声を代表する誰かへの――「迷い」なき同調と一体化の空間なのではないか。つまり、我々は結局、誰かに対して、マス・メディアを介することすらなく、じかに身を任せるようになりつつあるだけではないか。否、むしろ我々は、誰かですらないような、空気や雰囲気や流れといった曖昧な何かに、じかに溶け込みつつあるだけではないのか。

 著者は、「これらすべての問いにすべてイエスで答えることは、あまりにもシニカルで悲観的に過ぎる」と認めているし、情報技術の革命的な進歩がもたらした肯定的側面を無視してもいない。「しかし、これらの問いを杞憂と言い切ることもできないはずである」と著者は言う。
 「誰しも自分の話す言葉に耳を傾け、自分の言葉について思いを凝らし始めなければならない」というカール・クラウスの呼びかけ、より端的に言えば、「言葉を選び取る責任」を各自が引き受けなくてはならないという呼びかけは、現代の我々にも、同じように、あるいはより緊急を要する仕方で、突きつけられているという主張は、フランスの哲学者ジャック・ブーヴレスによっても繰り返されている(Jacques Bouveresse, Satire & prophétie : les voix de Karl Kraus, Agone, 2007. 本書の第三章は、合田正人氏の邦訳がある:「「常套句があるところに深淵を見ることを学ぶこと」――犠牲と国民教育」『思想』第一〇五八号、岩波書店、二〇一二年)。